16歳で子供を産めない体に…「人生は戻ってこない」 旧優生保護法訴訟 最高裁で3日判決へ

AI要約

旧優生保護法に基づき、不妊手術を強制された被害者の訴訟が全国で広がっており、最高裁判所が統一判断を下す。

被害者の一人である飯塚淳子さんは16歳で不妊手術を受け、その後結婚もできず、現在も子供を持つことを悔いている。

旧優生保護法は障がい者などを不妊手術の対象とし、1996年まで約2万5000人に被害をもたらした。

16歳で子供を産めない体に…「人生は戻ってこない」 旧優生保護法訴訟 最高裁で3日判決へ

本人の意思に関係なく、強制的に子供を産めない体にする不妊手術がかつて日本で行われていた。法的な根拠となったのは旧優生保護法。1996年に改正されるまで、被害に遭ったのは全国でおよそ2万5000人にのぼる。手術で“人生を奪われた”人たちの提訴の動きは仙台地裁をきっかけに全国へと広がり、最高裁判所は7月3日、上告された5件について初めての統一判断を示す。

宮城県内に住む飯塚淳子さん(仮名・70代)は16歳の時、軽度の知的障がいを理由に不妊手術を強制され、子供が産めない体となった。

その後、結婚もしたが、不妊手術を受けたことを話すと夫は家を出ていった。今も友人の家に遊びに行くと「子どもや孫がいたら私もこうだったんだろうな」とうらやましく思うという。子供が産めていたら…今とは違う自分の人生を想像し、涙がこみ上げてくる。

飯塚さんの人生を変えてしまったのは「戦後最大の人権侵害」と言われる旧優生保護法だ。

旧優生保護法は1948年に施行された。第1条には「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命・健康を保護することを目的とする」と定めていた。

障がいのある人などを「不良な子孫」と規定し、本人の同意を必要としない不妊手術を認めた。1996年に母体保護法へと改正され、強制的な不妊手術は認められなくなったが、その間に被害に遭ったのは全国でおよそ2万5000人に上る。

不妊手術を行うかどうかを決めていたのは、都道府県に設置された「優生保護審査会」だ。

仙台放送は1948年から1996年までの強制不妊手術に関する資料について、全都道府県と一部の指定都市に開示請求した。ほとんど資料が残っていない自治体もあれば、黒塗り資料も多い。その中には「優生保護審査会」での委員の発言も残されていた。

「出産の権利を奪うけれど生活の権利を与えるようになる。むしろ積極的に手術してやればという気もする」

「子供を産んだとして、その本人、子供、周辺の不幸は必然である」

優生保護審査会は医師や弁護士、裁判官などで構成されていた。仙台地裁所長も務めた泉山禎治さんはかつて三重県の優生保護審査会の委員を務めていた。当時の議事録には「障がい者が子供を産んだとして本人や子供、周辺の不幸は当然である」という発言が残されていたが、本人の記憶にはないという。ただ、泉山さんは「遺伝性の障がいがある人は優生保護法に基づいて子供を産めないようにした方がいいというのが当時の考え方だった」と今とは違う価値観があったことを証言する。