消えゆく新幹線「E2系」旧国鉄スーパーひかりの血脈

AI要約

E2系新幹線は20年以上にわたり親しまれてきたが、全車引退が近づいている。そのルーツは国鉄時代の「スーパーひかり構想」にあり、高速化と連続勾配克服が課題となった。

初代のぞみ「300系」との関連性、そしてJR東海、JR東日本がそれぞれE2系や300系を開発する経緯についても触れられている。

国鉄の「国鉄離れ」や技術改良の遅れ、JR東海、JR東日本が新型車両の必要性を感じた背景、新幹線網での使い勝手を向上させようとする取り組みが明確に説明されている。

消えゆく新幹線「E2系」旧国鉄スーパーひかりの血脈

 20年以上、親しまれたE2系新幹線。いよいよ全車引退となる日が近づいています。鉄道ライターの土屋武之さんがそのルーツを解説します。【毎日新聞経済プレミア】

 E2系新幹線は1997年、東北新幹線と北陸新幹線でデビューした。東北新幹線では時速275キロでの運転を実現させ、当時は「新幹線高速化の旗手」ともてはやされた。

 だが、四半世紀が過ぎた今では初期車両はすべて引退。2010年の新青森駅延伸に際して投入された6編成だけが残る。

 新幹線は高速運転を行うだけに1日当たりの走行距離が長く、寿命は十数年が一般的だ。長く親しまれた「E2系」にも、いよいよ終焉(しゅうえん)の時が近づいてきた。

 ◇「スーパーひかり構想」がルーツ

 このE2系と、JR東海の初代のぞみ「300系」(12年までに全車引退)は、技術的にはいわば「親戚筋」となる。そのルーツは国鉄時代の「スーパーひかり構想」だ。

 70年代後半、国鉄は財政状況や労使関係の悪化などで、新技術の開発に非常に消極的になっていた。64年開業の東海道新幹線では「0系」新幹線の初期車両が老朽化し、取り換えも必要になってきていたが、新型車両の開発は遅々として進んでいなかった。

 結局、技術的には何ら目立った改良もないまま同じ0系を新たに製造し、古くなった0系と置き換えるという措置が取られていた。

 しかしこのころ、世間では深刻な「国鉄離れ」も起きていた。相次ぐ値上げに加え、航空機やマイカーなどの交通手段が普及してきていたことが背景にある。さすがにいつまでも技術改良をちゅうちょするわけにはいかない。そこで打ち出されたのがスーパーひかり構想だった。

 幸い、車内設備などの改良については、2階建て車両を備えた新幹線「100系」(85年運転開始)が好評を博し、一定の成果を得た。そこでスーパーひかりでは、走行性能などの技術的な改良に主眼を置くことになった。

 ◇高速化と連続勾配克服が課題

 大きな課題は2点あった。一つは新幹線の宿命とも言える「高速化」だ。国鉄時代、0系と100系の運転速度は時速220キロが限界だった。そこで航空便に対抗するためにも、時速260キロ以上での運転を目標とした。

 もう一つが連続勾配対策だ。73年に整備が決定した北陸新幹線は、山岳地帯を通るだけに急勾配への対応が不可避と考えられた。

 北陸新幹線の高崎─軽井沢間には、当時の新幹線が走行できる許容範囲を超えた30‰(パーミル)の急勾配が、数十キロにわたって連続して存在する。特に下り勾配では、高速運転を行う一方、安全速度を維持しなければならず、高性能のブレーキが必要だった。

 ◇JRが構想を受け継ぐ

 こうした課題から始まり、国鉄は全国の新幹線網で使える汎用(はんよう)車両の開発を目指したが、87年の民営化でいったん中断してしまう。

 しかし、東海道新幹線を引き継いだJR東海と、北陸新幹線を開業予定だったJR東日本にとって、スーパーひかりはやはり必要な車両だった。

 JR東海は高速化を目的に構想を受け継ぎ、90年に300系を試作。92年から「のぞみ」として時速270キロでの運転を開始した。

 一方、JR東日本は急勾配対策を施した車両の開発を進めつつ、東北新幹線の高速化も視野に入れていた。これがE2系だ。走行区間の電源周波数や編成両数の関係で、東北新幹線用と北陸新幹線用は分けて製造されたが、基本的な性能はいずれも国鉄が構想した以上のものだった。