乃木希典大将も通勤していた目白駅の知られざる「駅史」

AI要約

高田馬場駅周辺の歴史と駅舎の変遷について詳細に描かれた文章。西武新宿線との関係や初代橋上駅舎の存在などが紹介されている。

目白駅の文化や地形について解説されており、目白通りや橋上駅舎の特徴が記されている。

初代と二代目の橋上駅舎の建設経緯や背景について考察した記事。

乃木希典大将も通勤していた目白駅の知られざる「駅史」

高田馬場駅を発車した外回り電車は、並走してきた西武新宿線がいったん右手へ分かれたのち神田川を渡る。コンクリート護岸に覆われた川幅はさほどではないけれど、車窓から見える川面はかなり下のほうにある。意外と清らかな流れだ。1973(昭和48)年に「南こうせつとかぐや姫」が歌った『神田川』は、もう少し早稲田寄りの流域が舞台だった。

離れていた西武新宿線がカーブを描きながら近づいて、山手線の下をくぐり去っていく。線路沿いに小さな公園があるが、西武線の初代高田馬場駅はこのあたりにあったのだろう。新宿区と豊島区の境を縫いながら、新目白通りを高架で越えたのち、線路が地平面へおりてくれば、すぐに目白駅だ。高田馬場駅からはわずか900mだから、目白駅ホームの突端に立つと、後方はるかに先ほどの高田馬場駅が視認できる。新大久保駅と同様、他に乗換路線をもたない単独駅で、山手線の起点駅・品川から14.2kmの地点にある。

開業は1885(明治18)年3月16日。日本鉄道会社が品川-赤羽間に、山手線の前身となる品川線を開通させたのは同年3月1日だったから、半月遅れての開業だった。面白いのは同じ日に目黒駅も開業していること。江戸鎮守の五色不動とされる、目白・目黒・目赤・目青・目黄不動のうちのふたつが駅名に採られ、同日に店開きしたのである。

本来の目白不動尊は、いまの文京区関口二丁目にあった新長谷寺を指していたのだが、戦災で堂宇(どうう)を焼失し、仏像は豊島区高田二丁目に所在する金乗院に併祀されて、現在はここが目白不動を名乗っている。目白駅から1kmほどの距離だけれど、駅開設時の新長谷寺は2km以上も離れていたから、いくら著名だったとはいえ、駅名に借りるにはちょっと無理筋だったように思える。あるいは、あえて目黒と対になることを狙ったのかもしれない。

目白駅のホームは武蔵野台地が南に向かって下り傾斜をなす“麓”の部分に位置し、台地上を東西に走る目白通りに面して線路上に建てられた駅舎は、ホームから階段を上がると改札に直結する橋上駅の体裁となっている。曲線を用いた窓や出入口上の庇(ひさし)、そしてその奥に嵌(は)め込まれたステンドグラスがおしゃれな印象を与える。線路沿いにあまり高い建物がないので、空が広いのも好ましい。

明治の創業期の駅舎は、ホームと同じレベルで線路の西側にあった。当時は清戸道(きよとみち、現在の清瀬市方面へ至る道)と呼ばれた目白通りは、駅周辺で二手に分かれ、「上の道」は現在と同様に目白橋で線路を跨(また)ぎ、一方の「下の道」は坂をくだって線路と踏切で交差していたのである。この「下の道」が駅舎へと通じていた。

地上駅が、今日みられる橋上駅に建て替わるのは1922(大正11)年である。いまよりだいぶ小ぶりで、いちばん西側の線路(現在の外回り線)のみを跨いで建てられ、ホームへ下りる階段とは別に、麓の地平と連絡するコンクリート製の階段が設けられた。地形的な要素が大きかったとはいえ、わが国で初めての橋上駅舎といわれる。だが、この駅舎のことはあまり世に知られておらず、ともすれば次に述べる二代目橋上駅舎と混同されている向きがある。

それというのも、栄えある初代橋上駅舎は、わずかな期間しか使われなかったからだ。6年後の1928(昭和3)年8月には規模を大幅に拡大した、二代目の橋上駅舎に早くも取って代わられているのだ。このあたりの経緯は、平岡厚子『目白駅駅舎の変遷に関する考察』(豊島区立郷土資料館研究紀要『生活と文化』第24号、2015年)に詳しいが、筆者の平岡氏は、初代橋上駅舎は早晩建て替えることを前提につくられたのではないかと推測している。

理由として、大正から昭和初期のこの時期、山手線は複々線化工事が急がれる一方、財政は逼迫(ひっぱく)しており、中小規模の駅はひとまず仮設の位置づけで、旅客の増加に対処したのではないかとする。そのうえで、恒久的な新駅舎の姿を見すえて初代をつくり、時機の到来とともに初代の機能を維持しつつ二代目の新築工事を進めたとの論考だ。