明太子で福岡を元気に ドラマ「めんたいぴりり」を企画した「ふくや」社長の川原武浩さん 一聞百見

AI要約

福岡・博多の代名詞である辛子明太子。ふくやが最初に商品化し、他のブランドが続々と生まれる。

明太子の製造には10年の歳月と工夫が必要だった。唐辛子にこだわり、京都の専門店に微粉唐辛子を特注。

明太子の人気は口コミで広がり、観光客やサラリーマンも購入。吉田茂や白洲次郎がパンに塗って食べた逸話もある。

明太子で福岡を元気に ドラマ「めんたいぴりり」を企画した「ふくや」社長の川原武浩さん 一聞百見

福岡・博多の代名詞といえば辛子明太子。最初に商品化したのは「ふくや」(福岡市)とされている。創業者は製法を公開、あえて「元祖」は名乗らなかったことで、個性を競う明太子のブランドが続々生まれ、今日の隆盛につながった。5代目の現社長は劇団を主宰する異色の経営者。「博多」の価値を高めるM&A(企業の合併・買収)で地域に貢献する。

JR博多駅周辺や福岡空港でお土産に明太子を物色すると、ふくやのほかに「かねふく」「やまや」「福さ屋」「福太郎」「かば田」「稚加榮(ちかえ)」「椒房庵(しょぼうあん)」などなどそのブランドの多さに驚かされる。

明太子を最初に商品化したのはふくやの創業者、川原俊夫。現社長、武浩(52)さんの祖父である。俊夫は幼少期、今の韓国・釜山で過ごした。当時食べた「たらこのキムチ漬」の味が忘れられず、これをヒントに明太子の製造を思いついた。

昭和23年10月、戦後の焼け跡が残る中洲の一角で食料品店「ふくや」を創業。翌年1月10日、明太子の製造販売を始める。

「日本では辛いものになじみが薄く、水で洗ってから食べる人が多かったらしい。大量に売れ残り、捨てる日々が続きました。研究を重ね、満足のいく商品に仕上げるのに10年かかりました」

唐辛子にはこだわり、工夫をこらした微粉唐辛子を京都の専門店に特注した。

やがておいしいと評判が立ち、行列ができ、売り切れが続出。口コミで観光客や出張中のサラリーマンも買いに来た。

「あの吉田茂、白洲次郎がパンに塗って食べたという話があります」

占領下の日本で、西鉄ライオンズがプロ野球に参入するには連合国軍総司令部(GHQ)の許可が必要で、交渉を有利に運ぶために西鉄職員が地元の国会議員、麻生太賀吉に吉田茂首相と側近の白洲次郎を紹介してもらった。その手土産に明太子を持参したという逸話が残る。

人気の明太子を求め、お客が近所の店に間違えて来店するようになる。「うちの店でも売ろうか」と提案すると、俊夫は「卸販売はしない。おたくも明太子をつくればいい」と勧め、仕入れ先から材料、製造法まで包み隠さず教えた。だが、調味液の味付けだけは絶対に明かさなかった。

「それぞれが独自の味を創り出せば、より多くの人の好みに対応でき、明太子が一般的な食品として普及すると考えたからです」