「日本人は集団主義」はじつは間違い…なのに多くの人に信じられてしまったワケ

AI要約

日本の歴史や文化に対する欧米の先入観や誤解について述べられている。

アメリカの視点から見た日本人の個性や集団主義に関する誤解が説明されている。

日本とアメリカの文化・価値観の対比による誤解が、第二次世界大戦時にアメリカ政府の判断に影響を与えたことが示されている。

「日本人は集団主義」はじつは間違い…なのに多くの人に信じられてしまったワケ

いま日本はどんな国なのか、私たちはどんな時代を生きているのか。

日本という国や日本人の謎や難題に迫る新書『日本の死角』が8刷とヒット中、普段本を読まない人も「意外と知らなかった日本の論点・視点」を知るべく、読みはじめている。

なぜ間違った「常識」ができあがってしまったのだろうか?

この「常識」の淵源をたどっていくと、パーシヴァル・ローウェルというアメリカ人に行きあたる。ボストンの資産家の息子で、「火星の表面に見える縞模様は、火星人が掘った運河だ」という説を唱え、有名になったアマチュア天文家である。

このローウェルが、明治時代の日本にやってきて、日本をテーマにした『極東の魂』という本を書いた。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はこの本を読んで感激し、それが日本に来るきっかけになったというから、かなり影響力の強い本だったのだろう。

この『極東の魂』のなかで、ローウェルは「日本人には個性がない」と繰りかえし主張しているのである。なぜローウェルはそう主張したのか?

ローウェルがこの本を書いたのは、日本に来て日本語を学びはじめてから、1年ほどにしかならない時期である。だから、日本人について、ずいぶん珍妙なことも書いている。「日本人には個性がない」という主張は、日本人についての正確な観察から出てきたわけではないのである。

この主張は、おそらく、ローウェルの「先入観」に根差している。

ローウェルは、「アメリカ、ヨーロッパ、中近東、インド、日本と東に行くほど、人の個性は薄くなっていく」と書いている。

その半世紀ほど前、哲学者ヘーゲルは、『歴史哲学講義』のなかで、「西のヨーロッパから東の中国へと向かうにつれて、個人の自由の意識が減少していく」と論じていた。そっくりである。

欧米の植民地がなお拡大をつづけていた時代、ヘーゲルのこうした思想には、抗しがたい魅力があったのだろう。

アメリカを「西の端」、日本を「東の端」に置くと、アメリカ人と日本人は対極的な存在ということになる。

そのアメリカ人は、「強い自我をもつ個人主義的な国民」ということになっている。とすれば、その対極にある日本人は、「はっきりした自我をもたない集団主義的な国民」であるにちがいない。

「日本人には個性がない」というローウェルの主張は、こうした「先入観」にもとづく演繹的な推論の産物だったのではないか。

太平洋戦争のころまでには、ローウェル流の日本人観は、欧米の知識人のあいだでは、すでに「常識」になっていたらしい。

大戦中、アメリカ政府は、「敵国」日本を知るために、著名な歴史家、社会学者、人類学者などを集めて会議を開いた。その席上、大半の専門家が「日本人は集団主義」という見解で一致したという。

アメリカ人にとって、個人主義は、アメリカ文化の誇るべき特質である。民主主義の礎であり、独創的な科学研究や起業家精神の源である。

そう信じてきたアメリカ人にとって、「敵国」日本の文化が、個人主義の対極にある集団主義という特質をもっているというのは、しごく当然のことと感じられたにちがいない。