藤原ヒロシ、「トビリシ・カルチャーウイーク」へ

AI要約

藤原ヒロシがジョージアのトビリシ・カルチャーウィークについて語る。6~7年前に初めて訪れ、古い建物や親切な人々に魅了された。今回の訪問で街に人が増えた印象を受ける。

トビリシ・カルチャーウィークの主催者であるソフィア・ツコニアについて。彼女はジョージア出身で、国のファッションやカルチャーを発信するためにファッションウィークを立ち上げた。

政治的な緊張感やデモが中で行われる中、ジョージアのファッションやカルチャーの可能性について藤原は考えを巡らせる。将来的にトビリシにファッションやアートの学校を設立するアイディアを持つ。

藤原ヒロシ、「トビリシ・カルチャーウイーク」へ

5月9日から12日まで、ジョージアで「トビリシ・カルチャーウイーク」が開催された。7年ほど前から現地に訪れる藤原ヒロシになぜトビリシに魅了されるのか直撃した。

──藤原さんはこの5月に、ジョージアの首都=トビリシで行われたトビリシ・カルチャーウィーク(「TBILISI CULTURE WEEK」)を訪れたわけですが、その前身であるトビリシ・ファッションウィークにも何度も足を運ばれたと聞きます。トビリシに興味を持ったのは、なぜですか?

藤原ヒロシ(以下、藤原) きっかけは、今から6~7年前に東京のセレクトショップのバイヤーの方から「ジョージアのファッションウィークに行ってきた」という話を聞いて、「そんなのがあるなら、僕も行ってみたい」と言ったら、そのバイヤーの方を通じて、トビリシのファッションウィークのオーガナイザーから招待されて。それが最初ですね。

──その初めて訪れた時には、どんな印象を持ちましたか?

藤原 その時はソ連崩壊時に旧ソ連から独立した国ということや、僕が行く数年前に国の呼び名をロシア語読みの「グルジア」から英語の発音の「ジョージア」へと日本でも正式に変更されたということくらいで、その他に情報は何もない状態で行ったんです。そうしたら、トビリシの古い建物には面白いものが多く、街の雰囲気もロシアの都市以上にロシアを感じさせるところがあって。もともと僕は旧東欧圏が好きなこともあり、それでジョージアという国に病み付きになったというか(笑)、すごく好きになりました。トビリシの人はみんな親切ですしね。

──そして、その初訪問以来、トビリシへ何度も行かれているわけですが、今回の訪問ではどのような変化を感じましたか?

藤原 ここ数年はパンデミックの影響やロシア・ウクライナ戦争の影響もあってトビリシに行くことができなかったので、久しぶりの訪問にはなったのですが、以前より街に人が増えた気がしましたね。

──今回、トビリシ・ファッションウィークがトビリシ・カルチャーウィークへと趣旨が変わっていますが、ファッションウィークの時と同様にこのイベントの中心的な役割を果たされているのは、ソフィア・ツコニア(Sofia Tchkonia)さんという方ですね。彼女はどういった人物なのでしょう?

藤原 ソフィアさんは、ジョージア出身なんですが、パリで学生時代を過ごし、そこで映画関係の仕事に就いていたそうなんです。その後、ジョージアに戻って、ジョージアのファッションやカルチャーを盛り上げようという思いで、トビリシ・ファッションウィーク、現在のトビリシ・カルチャーウィークを立ち上げた人です。

──世界中のいろんな都市でファッションウィークが行われていますが、彼女のような個人が表に立って先導する形で開催されているのは他にはないのではないかと思います。

藤原 確かにそうですね。そして、トビリシの場合はブランドのプロモーションの場というよりは、現在のジョージアの文化を発信する場所となっているように見えます。つまり、各ブランドやアーティストが切磋琢磨するというよりは、ジョージアそのものを見てもらいたい、ジョージアが面白いということを知ってもらいたいというような気持ちで行われているように思います。

──実際、我々の多くがジョージアの名を目にするのは、国際政治に関わるニュースがほとんどですが、ジョージアに我々と同じような同時代のファッションやカルチャーがあることを知ると、より興味や親近感を抱くようになります。

藤原 そうかもしれないですね。まあ、僕はどちらかと言うと政治や歴史への興味の方が今も強いけれど。「ここが、スターリンの生まれた国かぁ」とか(笑)。

──なるほど(笑)。とはいえ、SITUATIONIST(シチュアシオニスト)のように、トビリシ・ファッションウィークを通じて知り合ったデザイナー/ブランドもいますよね。

藤原 そうですね。初めてトビリシ・ファッションウィークに行った時に、そのSITUATIONISTというブランド名(註*1)が気になってショーを観たんですが、その後、ソフィアさんの紹介もあって彼らのアトリエに遊びに行っていろいろと話をして。それ以来、彼らとは連絡を取り合っていて、今回のトビリシ訪問でもアトリエにお邪魔して少し話をしました。以前に一度、彼らとコラボレーションもしましたね。

──SITUATIONISTは非常にアーティスティックなコレクションを展開するモードブランドだと思うのですが、彼らのようなデザイナーがジョージアをベースに活躍していることをどう思いましたか?

藤原 僕はある種の必然と感じました。特に初めて会った時は、その直前にジョージア出身のデムナがバレンシアガのデザイナーに就任したタイミングでもあったので、そうしたモード=ハイファッションの文化をジョージアでも受け継いでいるというのは自然に理解できましたし、彼らを含めたジョージアのファッションシーンにとても可能性を感じました。ただ、現在はその後に起きたパンデミック、ロシア・ウクライナ戦争といった不安定な世界情勢や国際政治の影響を受けて、やや停滞してしまっているようにも見えます。

──おっしゃる通り、ジョージアという国、あるいはトビリシという街で、西欧の水準を意識したファッションやカルチャーを実践しようとすると、僕らの想像以上に「政治」を意識せざるを得ないのかなという気がします。実際、街のあちこちに“WE ARE EUROPE”というスローガンが描かれていましたし、特に今回は時期的にも“ロシア法”(註*2)と呼ばれる法案に反対する大規模なデモが連日行われていました。

藤原 あんなに大人数のデモを間近で見たのは初めてでしたね。ただ、僕の個人的な意見としては、あまりヨーロッパに同化しすぎて欲しくないという気持ちもあるんですが、その一方で、ロシアとは明確に線を引きたい、距離を置きたいという人々の気持ちも理解できます。僕らを含めた今回のトビリシ・カルチャーウィークに招待されたゲストたちは、ジョージア大統領主催の昼食会にも招かれたんですが、その時の大統領のスピーチでも、「私たちの心はヨーロッパと共にある」と、はっきり言っていて。それを聞かされると、過去のソビエト時代から完全に脱却したいという彼らの思いを感じました。

──そうした政治的な緊張感の中でファッションやカルチャーについて考えるという機会は、僕ら日本にいる者には滅多にないじゃないですか。今回のトビリシでのカルチャーウィークはまさに、そうした状況の中で開催されていました。そのことについて、何か感じたことはありますか?

藤原 今回のデモは、その“ロシア法”というものに反発する中で起こったわけですが、その法律は外国から資金提供を受ける団体やメディアの活動を規制するというもので、その法律の持つ国家主義的な色合いがEUへの加盟の妨げになるし、運用次第では僕ら日本人がジョージアの人たちと何かするのも難しくなるかもしれないわけだから、それに対して怒る市民がいるのは当然ですよね。僕としては、今のジョージアが好きというか、ウエスタナイズされ過ぎない方が良いのではないかとも思いますが、ジョージアの人たち──特に僕らが出会うような人たちにとっては、ロシアの影響力を遠ざけ、ヨーロッパと一緒になってファッションやカルチャーを自由に発信していくことが重要であることも理解できます。そういう意味では、今回のトビリシ訪問はジョージアのファッションやカルチャーを目にしたというだけでなく、ジョージアという国の置かれている状況、そして、その将来の可能性について、いろいろと考えさせられましたね。

──具体的にどのようなことを考えたのですか?

藤原 僕が思ったのは、アントワープの王立芸術アカデミーのようなファッションやアートの学校をトビリシに作ること。それはファッションで言えば、パリのようなモードの中心地を目指すのではなく、そのパリに優れたデザイナーを送り出す存在にトビリシがなったら良いと思うんです。そして、そのためには世界中から優秀な講師と学生を集めることが必要です。このアイディアはソフィアさんにも伝えて、彼女も興味を持ってくれました。もちろん、僕に手伝えることがあれば、ぜひ力になりたいですね。

(註*1)シチュアシオニスト(シチュアシオニスト・インターナショナル)は、前衛芸術家、政治思想家らによって、芸術、文化、政治等の広範な社会的実践を目指して結成された国際的な社会運動集団。1957年から72年まで活動した。その中心的人物であるギー・ドゥボールが著した『スペクタクルの社会』はセックス・ピストルズの仕掛け人、マルコム・マクラーレンに大きな影響を与えた。

(註*2)「外国から20%以上の資金援助を受ける団体に登録を義務づける」ことを旨として与党から提出された法案。これに対し野党側は「ロシアの法律と同じように政権の意向に沿わないNGOやメディアの活動を制限するもの」として「ロシア法」と呼び反発。藤原が滞在していた5月中旬の首都トビリシでは、数十万人規模の市民デモが連日行われ、法案可決後に大統領が拒否権を発動したが、与党が覆し法律が成立した。