ドリス・ヴァン・ノッテンが語る、最後のショーとファッションに捧げた人生、そしてこれから

AI要約

ドリス・ヴァン・ノッテンがパリ・ファッションウィークで引退宣言をした後の36時間を振り返る。

最後のランウェイショーの舞台裏から、彼のメンズウェアに遺したレガシー、ファッション業界に対する考え、そして今後の計画まで彼の独占取材。

引退後の生活について、彼の庭から感じた満足とアントワープの6人との友情についても語っている。

ドリス・ヴァン・ノッテンが語る、最後のショーとファッションに捧げた人生、そしてこれから

パリ・ファッションウィークで発表された2025年春夏コレクションを最後にクリエイティブ・ディレクターを引退したドリス・ヴァン・ノッテン。ラストショーの舞台裏から、「アントワープの6人」、今後の計画まで、US版『GQ』の独占取材に語った。

ドリス・ヴァン・ノッテンが自身最後のランウェイショーで別れを告げてから約36時間後、彼は日当たりの良いパリのショールームに座っていた。いつも通りの月曜の朝、オフィスではシックな装いの社員たちがパソコンをカチャカチャと操作している。シグネチャーであるネイビーのセーターにカーキのパンツ、タンの革靴を履いた66歳の伝説的ファッションデザイナーは、爽やかで溌剌としていた。「昨晩はよく眠れました。その前の何日かはそうでもありませんでしたけどね」と言い、彼は微笑んだ。

彼のメンズウェアに遺したレガシー、ファッション業界についての考え、そして今後の計画について幅広く話をしようと腰を落ち着けたとき、ヴァン・ノッテンはほとんど反射的に、私たちの周りの棚に並んだフットウェア・コレクションを2つに分類しなければならなかったことを話し始めた。どうやら、イタリアのフットウェア・サプライヤーが関係している話らしかった。「まだ引退したふうには見えないですね」と、私は彼に言った。

今年初め、ヴァン・ノッテンがそれまで年に4回手がけてきたコレクション制作から身を引くと発表したことは、大きな話題を呼んだ。この業界では、デザイナーはいつ、どのように退くべきかを知らない傾向がある。しかし、先見の明のあるヴァン・ノッテンは、常に自分の流儀で物事を進めてきた。

■ファッションを去るわけではない

彼のグランドフィナーレは、800人以上の友人やファン、カスタマー、信奉者、そしてデザイナー仲間たちの前で行われた。そのなかには、1981年にアントワープ王立芸術アカデミーを卒業し、業界を席巻したベルギーのファッションデザイナーグループ「アントワープの6人」のメンバーも含まれていた(メンバーにはヴァン・ノッテンのほかに、アン・ドゥムルメステール、ダーク・ヴァン・セーヌ、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ダーク・ビッケンバーグ、マリナ・イーがおり、マルタン・マルジェラはしばしば7人目のメンバーとみなされる)。

最後のショーは典型的なドリス流だった。知的なカッティングと巧みな色彩、パターン、テクスチャーで、着た人がその場で最も興味深い人物となるようにデザインされた服で溢れていた。一方、ドリス ヴァン ノッテンのかつてのショーでもランウェイを歩いた顔ぶれが白髪混じりとなって登場したとはいえ、それは過去のヒット作を集めた回顧的なものではなかった。

最後のお辞儀を終えて帰ってきたバックステージで、明らかに感極まった様子のヴァン・ノッテンは、パリッとしたリサイクルポリエステルなど、古典的な英国のウールとともに採用された新素材について、言葉をほとばしらせずにはいられないようだった。美しく淡い花柄のトレンチ、パンツ、トップスを作るために初めて取り入れた日本古来のプリント技法に話が及ぶと、彼は一際目を輝かせた。

それは、彼の作品を日常生活の一部にしてきたファンへの愛情のこもった贈り物であり、彼のレガシーを引き継ぐまだ名前の明かされていない後継者への明確なメッセージでもあった。「(後継者は)勇気を持って、前に進まなければなりません」と、彼は私に語った。ショーが終わり、バックステージでのハグやセルフィーが延々と続いた後、ヴァン・ノッテンはミラーボールの光を浴びながら0時過ぎまで踊った。

ドリス・ヴァン・ノッテンの人生における次の段階は、彼がアントワープに戻ることで正式に始まる。それから彼は、パートナーのパトリック・ヴァンヘルヴェと愛犬とともに、伊アマルフィ海岸へ8日間の休暇に赴く。彼との会話の端々から、ヴァン・ノッテンが家に帰りたがっているのが感じられた。しかしその一方で、彼が全てを置いてファッション界を去ろうとしているわけではないこともわかった。

「まだいろいろな計画がありますし、様々に違うことをやろうとも思っています」と、彼は歯切れの良いベルギー北部の訛りで話した。「ファッションの世界の何もかもが、私の魂であり、人生ですから。今になって完全にドアを閉めるなんて、しっくりくる気がしません。だから、そんなことはしませんよ」

──土曜のショーに先立ち、あなたは複数のインタビューで引退を決断することへの気持ちの揺らぎを明かしていました。今のお気持ちはいかがですか。

満足しています。来週になって実感が湧いてくると、「何てことをしたんだろう?」と思う瞬間が訪れるでしょう。それが普通だと思います。私がしたように、心と魂を込めて、情熱を持って何かを終わらせたときにはね。私はいつもファッションのことを考えていました。見るものすべてがインスピレーションの源で、常に自分の創造性を養っていたのです。

田舎に住んでいるので、毎日1時間半は車に乗っているのですが、ラジオから流れてくる音楽を聴いて、面白ければすぐにShazamで検索していました。もう音楽をShazamする必要がないなんて変な気分ですよ! 美術展に行けば、面白い色の組み合わせを写真に撮っていました。何かに使えるかもと思ってね。これからはインスピレーションを得るために観るのではなく、ただ楽しむために観ることができるのです。「なぜ」とか「どのように」といったことを理解するために。

そういうわけで今までとは違う生活になりますが、大好きなビューティと香水の仕事は会社で続けますし、店舗デザインなどにも関わり続けます。それに、メンズおよびウィメンズコレクションについてのアドバイスもするつもりです。もちろん、彼らが私のアドバイスに従うか、従わないかは彼ら次第です。

■ファンの声が変えた最後のショー

──ショーについては話すべきことがたくさんありますが、特に私の印象に残ったのは一番最後のルックでした。サテンのポケットがついた黒のロングコート、流麗なゴールドシルバーのパンツ、シンプルなサンダル。簡潔かつ詩的でした。このショーを特別な形で終わらせることにプレッシャーはありましたか。

簡単だったと言えば嘘になります。もちろん、プレッシャーはありました。期待は本当に大きかったですからね。(引退を)発表したときの反応の激しさには、正直言ってかなり驚きました。もちろん、皆反応くらいはするでしょうが、雪崩を打ったような感情の押し寄せ方は本当に予想外のものだったのです。当初は、普段通りのショーをやろうと考えていました。メンズウェアで始めたからには、メンズウェアで終わらせたいとも思いました。締めくくりに相応しくね。

しかし、普通のショーをやるという考えに、やがて私は躊躇し始めました。多くの人が出席したいと言ってくれたからです。それで、とことんやろうと思ったのです。制作においては、“ベスト・オブ・ドリス”のようなコレクションにはしたくありませんでした。たくさんの色、たくさんのプリント、たくさんの刺繍といったように、人々の予想通りのことはやりたくなかった。そういうことは全部やりたかったのですが、これまでとは違う方法を見つけたかったのです。リスクを冒す最後のチャンスでしたからね。だから、新しい素材や新しいプリント技法、たとえば1000年前から伝わる日本の「墨流し」のような方法を試してみたかったのです。

やりがいのある挑戦でした。難しかったのはクロージングルック。当初はゴールドのジャケットで終わらせようとしたのですが、あまりに押しつけがましいと思ったのです。オープニングを、美しいウールとリネンのロングコートを着たアラン・ゴシュアンにしたというアイデアも気に入っています。アランは1991年の最初のショーでもオープニングを務めてくれましたから。

ファイナルルックは、これが私たちのために歩く初めてのシーズンであり、将来のアランになるであろう若い男性に着せるべきだと思いました。アランは私たちのために34回歩いてくれましたが、あの若い彼の歩き方やコートの着こなしもとても素敵でした。私は「ショーの最後はこれで決まりだ」と言いました。

──あなたはご自身の名声を強みにするようなタイプでは決してありませんでした。しかし引退を発表して以降、スポットライトはあなたに当たり続けています。不慣れな感覚が続いているのではないでしょうか。

ええ、かなりね。それでも、本当にうれしく思っています。引退発表の後、年配の方だけでなく、若い人たちや仲間のデザイナーたちからたくさん手書きの手紙をもらいました。皆わざわざ私に手紙を送ってくれて、私が作った服が彼らにとっていかに意味のあるものであったか、感情を分かち合ってくれたのです。

デザイナーたちは、私が彼らにインスピレーションを与えてくれた、私のインディペンデントな仕事のやり方に背中を押され、決断をすることができた、と言ってくれました。そういうことがずっと続いています。今朝もドアから3歩出たところで、私の知らない人が、「ドリス、あなたがファッションのためにしてくれたことに感謝します。さようなら」とだけ言って車に飛び乗り、消えていきました。

──明日アントワープに帰郷し、その後イタリアで1週間の休暇をとってから次の計画に取りかかるそうですね。その計画について、何か話せることはありますか。

私たちの計画は、まだ完全に固まったものではありません。そのために費やせる時間などありませんでしたから。しかし、会社での仕事のほかに、若い人たちを巻き込んだアイデアがたくさんあります。私にとって本当に大事なのは、若い人たちと繋がり続けることですからね。

1年前に決断したとき、私はパトリックにこう言いました。「これからの人生、60代や70代の人々とばかり付き合うことになるなんて思わないでほしい。それは私の人生ではない」と。私は常に若い人たちと情報やビジョンなんかを共有したいと思っています。私がメンターになることもあるかもしれませんが、彼らからもいろいろなことを教わり続けたいのです。

■「アントワープの6人」は今でも仲間

──多くの若者が、あなたの作品を通じてファッションの世界に足を踏み入れています。それは「アントワープの6人」にまつわる神秘性によるものでもあります。「アントワープの6人」の名声は、あなたがキャリアを築くのに役立ったと思いますか。それとも、あなたが抜け出さなければならない足枷だと感じましたか?

数週間前、私たちがまた一緒に集まることがありました。6人全員でね。ただ楽しいひとときを過ごそうという集まりでしたが、「アントワープの6人」がいかにアイコニックな存在になったかについても話題になりました。

あれは決して「グループを結成してこれをやろう」などというようなマーケティングプランではありませんでした。たまたまそうなっただけなんです。1986年にロンドンで開催されたブリティッシュ・デザイナー・ショーに出展した私たちの作品は、ショールームの2階でウェディングドレスやランジェリーの後ろにひっそりと展示されていました。

自分たちの名前がとても発音しにくいことは我々もわかっていたので、「6人のベルギー人デザイナーを見に来てください。階上にいるアントワープ出身の6人より」というチラシを作りました。この言葉が『WWD』の記事で取り上げられ、グループが生まれたのです。

私たちはファッションに対する情熱を共有した、友人同士の集まりでした。ファッションの可能性については各自で異なるビジョンを持っていましたが、多くの情報を分かち合い、お互いの背中を押し合ったものです。友達ですから、今でも一緒に出かけたりしていますよ。アンはガーデニングにハマっているので、私たちも一緒になって参加しています。彼女はトマトの苗を育てて私にくれ、私たちも苗を育てて彼女にあげたりね。

──6人でほかには何を話しましたか。

レガシーや歴史について。それともちろん、子どもや孫など家族についても。

──あなたのファッションに関する一番古い記憶は何ですか。服ではなく、ファッションの実践的、あるいは創造的な面についてです。

私にとっては、ファッションの学校に行ったこと。全てはファッションスクールで学びました。それまではイエズス会の学校に通っていたのですが、そこはもちろんとても厳しく、非常に規範的な学校でした。両親は洋裁店を経営していましたから、一緒について行ったフィレンツェやミラノで観たコレクションにとても魅了されました。

もちろん、イエズス会の学校にいたときに、自分がゲイであることがわかってもしようがありません。ファッションスクールに入り、ウォルター(・ヴァン・ベイレンドンク)やマルタン(・マルジェラ)のような人たちに出会ったときには、「わぁ、こんな世界があるのか」と思いましたね。

当時はファッション自体も非常にエキサイティングな時代でした。74、75年には、アルマーニとヴェルサーチェがリネンスーツ、レザージャケット、ロゴ、その他もろもろでメンズウェアを一変させました。そして(クロード・)モンタナや(ティエリー・)ミュグレーが登場すると、エレガンスとカジュアルからパワーショルダーへ、1年のうちに変貌を遂げたのです。

それから、パンク、ネガティブ主義、ダークな攻撃性の時代がやってきました。音楽は叫ぶようになり、ロンドンからはヴィヴィアン・ウエストウッドが登場し、ニューロマンティックが興りました。その後にやって来たのが日本のデザイン。1980年に(パリでの)コム デ ギャルソンの最初のファッションショーを観に行きました。

たった5年の間に起きた話ですよ? アイデアやビジョン、様々なアティチュード、全てが次から次へと花火のように現れるさまが想像できるでしょうか? 私たちにとって、ファッションは信じられないようなものでしたし、それは世界で起こっていること全てと切っても切れない関係にあったのです。

──コム デ ギャルソンのパリでの最初のショーに出席したというのですか?

ええ。

──どのような体験でしたか?

ええと、私たちは学生時代、ファッションショーにズルして参加するのが得意でね。狂ったように招待状をコピーしていました。招待状を1枚もらうと、それが12枚になって、全員で行ったものです。それと、(今は亡き『ニューヨーク・タイムズ』の写真家)ビル・カニンガムが、私たちがファッションショーに入るのをしょっちゅう助けてくれました。

彼は「ファッションショーは年寄りのためのものではない。君たちのような若者のためにある。君たちこそショーを見るべきだ」と言いました。彼はテントの両脇にある紐を開いて、私たちを滑り込ませたりしてくれたんです。ビル・カニンガム、ありがとう。

──初めて作った服を憶えていますか。

ファッションスクールに通うまで、自分で服を作ったことはありませんでした。当然のことながら、学校の1年目は非常に理論的です。実際に着る服を作るのは2年目から。最初に作ったのはメンズのブレザーで、伸縮素材をたくさん使わなくてはならない奇妙な課題でした。

おかしな時代でしたが、とても楽しかったですね。しかし、ファッションスクールでウォルターがやっていたこと、マルタンがやっていたこと、彼らの個性はすでにそこにありました。

──「アントワープの6人」にまつわる初期の評判は、どの程度耳にしていましたか。1986年のデビューは人生を変える瞬間だったのでしょうか?

苦難でしたね。私たちは準備ができていませんでしたから。私が幸運だったのは、バーニーズから注文が入ったこと。でももちろん、最初の数年は本当に大変でした。自分のブランドのための資金を稼ぐために、ほかのブランドのコレクションを7つはデザインしたと思います。簡単なことではありませんでした。最初に自分のショーを開いたのはマルタンで、その次がダーク・ビッケンバーグ。私がメンズショーを始める資金を得たのは91年のことです。

■「自分たちは何者なのか?」という問い

──フィレンツェで行われた1996年春夏メンズショーの様子を教えてください。あのショーは、あなたのキャリアだけでなく、メンズファッションの歴史においても、いまだに最もアイコニックなショーのひとつとされています。

ミラーボールがありましたね!(笑)いつもは非常に型にはまったファッションショーになりがちな、ピッティ・ウオモの資金援助がありました。彼らには嫌われましたね。私たちは、既成概念にとらわれないことがしたかったものですから。

「フィレンツェに行くからには、フィレンツェの人たちを巻き込みたい」と思い、フィレンツェやヨーロッパ中から140人の素人モデルを(会場となったミケランジェロ広場に)集めました。女の子の気を引こうとするギター弾きなど、イタリア人の恋人たちがいるような広場の普段の光景を再現したくてね。偽物のバッグを売る露天商たちもモデルの間を歩き回りました。ショーの最中にも、バス2台の日本人観光客に歩き回ってもらうことができました。本当にカオスでしたが、とても楽しかったですね。

フィナーレには花火を打ち上げたくて、フィレンツェの花火の責任者に相談したんですが、彼がその前の週に大きな花火を上げて大失敗していたことは知りませんでした。彼はフィレンツェに対していい花火ができることを証明しなければならなかったわけです。私たちはあまり予算がなかったので、30秒の花火をお願いしました。少なくともそれで、最後に一発決めることができますからね。

しかし私たちは、彼が5分相当の花火を届けてくれるなんて思いもよりませんでした。5分間で打ち上げるべき量を30秒で上げてしまったものですから、大爆発でした。フィレンツェ中の窓が震え、自動車や美術館の警報機が作動してしまいました。それで翌日、(プロダクション・デザイナーの)エティエンヌ・ルッソが逮捕されてしまったんです!(笑)空港で止められた彼は、何が起こったのかを説明しなければなりませんでした。クレイジーな出来事でしたね。

──あなたのメンズ・ビジネスの転機となったと思うコレクションはほかにありますか。

いくつかあります。特に印象に残っているのは、デヴィッド・ボウイにインスパイアされたブールデル美術館での2011年春夏ショー。ほかにも、私たちが何を学んだかがわかる様々なショーがあります。

(2001年春夏コレクションで)デヴィッド・ホックニーをモチーフにしたコレクションを発表したことがありました。私たちのメンズコレクションとしては最悪のものだったかもしれません。ちょっとミニマルにしようと試みたのですが、私たちには向いていないことがはっきりしました。クールでミニマルにしようとしたのが良くなかったのです。でも、そこからしっかりと学び、より力強いルックへと結実しました。

──あなたは以前、2000年頃にファッション制作に対する考え方が根本的に変わったと話していました。流行の服を作るのではなく、美しい服を作ることに集中しなければならないと。そのとき、どのようなプレッシャーを抱えていたのでしょうか。

奇妙な時代でしたね。ジル・サンダーとヘルムート・ラングの話題で持ちきりでした。私たちはそれでもビジネスで成功を収め、急成長を遂げていましたが。90年代後半、残念なことに私のビジネス・パートナーであったクリスティン・マティスが亡くなりました。それ以来、私はクリエイティブな面だけでなく、ビジネス面にも責任を持つようになったのです。それから、大きなグループから声がかかるようになりました。アレキサンダー・マックイーンが、ジル・サンダーが事業を売却した頃で、若い人たちがビッグメゾンに参加するようになりました。

──ファッションのコングロマリット化の始まりですね。

トム・フォードがグッチで働き始め、靴やバッグの重要性が明らかに高まり、服の重要性は薄れていきました。何もかもがマーケティング重視になっていきました。「自分たちは何者なのか? 私たちはこのままでいいのだろうか?」という問いが生まれたのは、そのような状況でした。チームの中には「もっとミニマルになるべきだ。もっとシャープにならなきゃ」という声もありましたが、それはやはりしっくりこなかったのです。

デヴィッド・ホックニーとのメンズコレクション(での失敗)は、自分の得意なことに立ち返ろうと決めた瞬間でした。しかし、あまり直接的にそこへ戻ってもいけないということも学びました。それ以来、私はコントラストで実験するようになり、色や刺繍にもひねりを加えて、作品をより現代的な方向へとさらに押し進めるようになったのです。

──もし90年代後半にLVMHやグッチ・グループ(現ケリング)に会社を売却していたらと考えたことはありますか。

もちろん考えますよ。プーチの一員になったときにもいろいろ考えました。でも、私は満足しています。自分のやり方で、愛するファッション制作ができましたから。スパンコールを選び、糸を選び、失敗し、失敗から学ぶ。私はそれが大好きだったし、今でも大好きです。

これからは、そんなことが恋しくなるでしょうね。もし私のブランドが今の10倍の規模で、あちこちに店舗を構えていたとしても、だからといって今以上に幸せな人間になれていたとは思いません。それは私の目標ではありませんでしたから。そして今、私は自分の決断が正しかったと思っています。

──自分の庭は十分広い、と。

その通りです。

──あなたはメンズスタイルの進化を最前列で見てきたわけですが、キャリアを通してメンズウェアの革命にどう応答してきましたか。

私がメンズウェアを本格的に始めた頃、特に最初の数年間は革命的なことが起きていたと思います。私たちがメンズショーを始めた頃、メンズウェアで重要なのは着こなしでした。服よりも、スタイルです。80年代に何が起こっていたかを少し分析してみると、素晴らしいメンズウェアを手がけるイタリアのデザイナーたちがシーンを牽引していた時代でした。

そして、ニューロマンティック以降の90年代初頭、メンズウェアはメンズサイズのウィメンズウェアのようになっていきました。モンタナやミュグレーを見たらわかると思いますが、彼らは女性向けとまったく同じことを男性向けにやっていたでしょう。

やがて、ファッションはゲイカルチャーと密接な関係を持つようになりました。もちろん、ゲイはファッションにとって素晴らしい顧客ですからね。しかし一方で、ストレートの男性とは断絶してしまいました。もしかしたら、ヘルムート・ラングがあれほど素晴らしい仕事ができたのは、そのせいもあるかもしれません。彼は、人々がそれでも求める厳格さをうまく取り入れることができたのだと思います。

私はいつもテーラリングに重きを置いていて、何でも控えめに押し進めようとしました。もちろん、肩の大きなジャケットを作ったりなんかもしましたが。しかし、そこにはいつも現実感がありました。それらが人々に訴えかけるものだったのは、彼らが好んで着たいと思えるものだったからです。そこには慎ましさ、リアリティがありました。これは私の作品を通しての一貫したテーマだったと思います。

言ってしまえば、私は今のファッションのあり方が好きではありません。ひとつだけ素晴らしいのは、頭のてっぺんからつま先までヴェルサーチェの服を着てもクールでファッショナブルに見えるし、ヴィンテージの服を着てもクールで素敵に見えるし、ユニクロの服を着たってクールで素敵に見えること。それが今のファッションの素晴らしいところだと思います。

でももちろん、私が一番好きなのは、それら全てを自分なりのスタイルで組み合わせることです。私が言葉を生み出す人間だとすれば、それを使って文章を綴るのがカスタマー。私のビジョンではなく、カスタマーの個性がルックを創り出すのです。私はアイデアを提供することができますが、それを選ぶかはカスタマー次第です。

──今のファッション界の何が気に入らないか、もう少し詳しく教えてもらえますか?

一日かかりますよ?

──あなたが望む限り、私はここに座り続けます。今、ファッションが非常に不安定な状態にあることは明らかで、業界は私たちの誰もが思っている以上に脆いと感じます。

しかし、脆いのはファッションではなく、ファッションビジネスです。そして、私はこのふたつは異なるものだと考えています。ファッションとは欲望であり、それがファッションの力だと私は思います。気分が乗らなくても、セーターを着れば気分が晴れる。ある瞬間に輝きたいと思えば、輝ける。自分を隠したければ、隠すことができる。それが服の力だと思うし、服はそのためにあるのだと思います。

ビジネスマンがファッションをどうするかは、また別の話。私が思うに、それは今最良の状態にはありません。それは誰もが知っていることだと思います。どれだけ偽物の欲望を作り出せるか? 今は多すぎ。間違いなく多すぎます。

──引退を決意したのは、業界に対するこうした思いも関係があったのでしょうか。

もちろん、それもあります。しかし一方で、困難な時代にも私たちはブランドとして大きな成功を収めてきました。困難な時こそ、人々は私たちのやっていることに強く共感してくれたのです。だから、私は自信を持っています。「ファッション業界はもうダメだ。もうあきらめよう」とは思いません。かえって刺激になって続けられますからね。

■後継者に遺したいもの

──2018年、あなたはブランドの株式の大部分をプーチに売却しました。あれは最終的な引退に向けた計画の一部だったのでしょうか。

それは考えていました。2017年、ちょうど私が60代に差し掛かろうかという時期です。会社は非常に元気でしたが、自社でEコマース事業を行っていませんでした。店舗数も十分ではなく、中国でのビジネスにも参入しなければなりませんでした。それで、いろいろなことがあったのです。当時のアクセサリー事業は、売上高の4%だったと思います。

当初の考えでは、65歳まで働いたら廃業するつもりだったんです。それでおしまい、とね。しかし、それではアントワープのチームに対して誠実ではないと気がつきました。何人かは25年、30年、35年と一緒に働いてきて、家庭も築き始めています。だから「もうたくさん。十分稼いだから会社はもう必要ないよ。ありがとう。さようなら」なんて言うのは極めて不適切でした。

そこで、私たちはまず、私たち抜きに続いていけるだけのアイデンティティがこのブランドにあるかどうかを判断しました。そして、私たちには非常に優れたアーカイブがあることに気づいたのです。私もとても誇りに思う、オーガナイズされたアーカイブがね。パターンもあるし、生地もある。すぐに使える素材がある。私の作品の完全なコピーを作ってほしいわけではありません。しかし、未来のデザイナーはそういった素材を活用することができるのです。

それでプーチというパートナーを見つけ、65歳でやめようと決めたのですが、コロナ禍が起こり、私自身まだ心の準備ができていなかったことに気づきました。まだやりたいことをすべてやったわけではなかった。しかしそれでも、「もういい」と決断しなければならない瞬間というのはやってくるものです。

──後任が誰になるにせよ、何かアドバイスはありますか。

リスクを冒してほしい、ということです。私たちは常に人々を驚かせたいと思ってきました。重要なことです。私がとにかく望んでいないのは、私がやってきたことの新しいバージョンを彼らが作ろうとすること。彼らは思い切って前進しなければなりません。それは、私の最後のショーがどうしてあのような形になったのかの理由でもあります。“ベスト盤”は作りたくなかったのです。

そう、私はリスクを冒しました。カラフルさが足りなかったとか、プリントが少なかったとか、がっかりした人もいるかもしれません。しかし、私としては望み通りのものができました。リスクを冒す最後のチャンスだったので、それを掴んだのです。

──引退とともに、ネイビーのセーターというユニフォームからも離れるのでしょうか。

(笑)私の一日は決断の連続でしたからね。クローゼットを開けたときに一番したくないのは、何を着るかを決めること。単純でありたいのです。レストランに行けば、食べるのはその日のお勧め。メニューを開いて選んだりしたくないのでね。これからはファッションをもっと試してみてもいいな。可能性はありますね。

From GQ.COM

by Samuel Hine

Translated and Adapted by Yuzuru Todayama