息子が目撃したグッドウッド・リバイバル 純白のハンスゲン・スペシャル(2) 世界水準の厳しい現実

AI要約

1953年シーズン、ウォルト・ハンスゲン氏は多忙を極める。短縮されたワトキンス・グレン・グランプリで優勝を果たし、自らマシンを開発してしまう驚異も。

ジョージア州での国際スポーツカー・レースでは、世界水準に遅れを取る。しかし、その結果から更なる速さへの情熱が芽生える。

ハンスゲン・スペシャルが所有者を変え、数々のイベントへ参戦するも、ノータッチで保存を続けるミルスタイン氏によって31年間に渡って大切にされる。

息子が目撃したグッドウッド・リバイバル 純白のハンスゲン・スペシャル(2) 世界水準の厳しい現実

1953年シーズンを、ウォルト・ハンスゲン氏は多忙に過ごした。複数のレースでハンスゲン・スペシャルは好成績を残し、9月19日のワトキンス・グレン・グランプリで、確実な評価を勝ち取ることになる。

前年の観客の死亡事故を受け、7.4kmへ短縮された市街地コースは、以前ほどの難易度ではなくなっていた。ハンスゲン・スペシャルは、序盤から3台のアラード・マシンをリード。ところが、残り3周で直列6気筒エンジンの異変を感じ取る。

ウォルトは燃料系を疑うが、原因へ気が取られているうちに、アラードがトップを奪取。最終ラップの22周目に不調ではないとわかり、5度も順位を入れ替えつつ、最終コーナーでトップを奪い返す。僅差で優勝を果たした。

彼がレースへ本格的に興味を抱いたのは、1950年。その3年後には、自らマシンを開発し優勝してしまうのだから、驚かずにはいられない。

1か月後には、アメリカ南東部のジョージア州で開かれた、FIA公認の国際スポーツカー・レースへ。だが、世界水準のマシンとドライバーが集結し、ウォルトは厳しい現実へ直面した。

ハンスゲン・スペシャルは、ストレートを250km/h前後で駆け抜ける、フェラーリ340 メキシコやカニンガムC-5Rへ太刀打ちできなかった。最高速度は206km/hで、ワークスのジャガーCタイプと比べても約30km/h遅かった。

ウォルトは諦めず、402kmを完走してクラス3位、総合10位へ入賞した。だが、より速いクルマへの情熱にも火が付いた。自宅を抵当に入れ、ついに彼はダークブルーのCタイプを手に入れたのだった。

はかなく手放されたハンスゲン・スペシャルを引き継いだのは、レーサー仲間だったポール・ティミンズ氏。フェンダーをダークブルーに塗装し、1954年のレースを戦った。表彰台に登ることはあったものの、その中央に立つことはなかったようだ。

だがティミンズは、1955年3月に交通事故でこの世を去ってしまう。その後はジョージ・スターナー氏が11年間のオーナーになり、週末のドライブを楽しみ、JD.アイグルハート氏へ売却された。

アイグルハートは、ボディをブルーに塗装。ヒルクライム・レースへ挑む時以外は、ワトキンス・グレン博物館の展示車両として貸し出された。

彼から1983年にクルマを買い取ったのが、カーディーラーを営むボブ・ミルスタイン氏。ウォルトの活躍を知っており、保存したいと考えたらしい。

ミルスタインも根っからのレーサーで、純白に塗り直されたハンスゲン・スペシャルで150以上のイベントへ参戦。すべて無事故で切り抜け、31年間状態は維持された。

ジャガーの専門家、テリー・ラーソン氏の仲介を受け、現オーナーとなったのが、スイス在住のクリスチャン・ジェニー氏。ハンスゲン・スペシャルへ魅了され、クラシックカーイベント、グッドウッド・リバイバルへの出場が計画された。