権威の根拠は「神」ではなく「人民」に イスラム哲学者の体制批判

AI要約

イラン革命の影響と独自性

イラン革命の理論的根拠と指導者の役割

シーア派とスンニ派の違いによる理論の受容度

権威の根拠は「神」ではなく「人民」に イスラム哲学者の体制批判

 今年はイラン革命から45年だ。今日の中東情勢はこの革命に大きな影響を受けているが、革命のありようも中東では前例のないものだった。

 戦後、中東では多く革命と称するものが起きたが、大別すると二つ。1952年のエジプトのように、軍の一部に率いられた事実上のクーデター。それと2011年の「アラブの春」のような、経済に不満を持つ不特定多数の民衆蜂起だ。しかしイラン革命はいずれにも入らない。

 イラン革命の特徴は、2人のイデオローグがパーレビ王政打倒の運動に理論的根拠を与え、大衆を引っ張ったことだ。

 ◇政治への介入

 この2人は、イスラム法学者のホメイニ師(1902~1989年)と、宗教社会学者のアリ・シャリアティ氏(1933~1977年)。

 2人は1950年代からそれぞれの立場から王政批判を展開したが、ホメイニ師は64年に国外追放され、イラクのシーア派の聖地ナジャフを拠点にした。10年余のイラク滞在中、同師はそれまでのシーア派理論を発展させたベラヤテ・ファギ(高位聖職者による支配)という統治理論を打ち出す。

 イスラム宗教界の主要な理論は、「イスラム法学者は政治の監視者にとどまるべきで、政治に介入すべきではない」というものだった。ベラヤテ・ファギは最高位にあるイスラム法学者がイスラム法にのっとって政治、経済をはじめとする諸政策の判断をするというもの。イスラム教と政治の一体化だ。

 同師を慕う若手の神学者たちは、スピーチの録音テープをイラン国内に持ち込み、信者の間で回し聞きされ、浸透していった。イラク国内のシーア派への影響を恐れたイラク政権はイラン革命前年の78年、ホメイニ師を国外追放し、同師はフランスに移る。

 一方のシャリアティ氏は国内の大学で宗教社会学を修めた後、60年代初めにパリ・ソルボンヌ大学に留学した。イランにいたころから反王政運動にかかわった同氏はイスラムと民主主義の整合性を研究したが、実存主義からも大きな影響を受けたと言われる。

 同氏はシーア派の理論に新しい解釈を加え、「シーア派は社会の不正義と戦う宗教であり、イスラム神学者、法学者が説教と祈りに閉じこもるのは間違いだ」と訴え、多くの著作を発表した。当時、南米で隆盛だった不正義に対する行動を主張したカトリックの「解放の神学」と対比する見方もある。

 64年に帰国した同氏は大学で教壇に立ちながら活発な言論活動を続けた。何度か逮捕された末、77年英国に脱出したが、直後に死亡しているのが発見された。イランの秘密警察の仕業と信じられている。

 イスラム教シーア派の理論を再定義して、「政治への介入」「不正義との戦いへの積極行動」を訴えたホメイニ師とシャリアティ氏の二つの理論は社会改革と反王政の指導理論となっていき、70年代半ばごろから運動を引っ張った。ホメイニ師の主張は保守派やバザール商人から、シャリアティ氏の理論は左派、知識人、学生からの支持を集めた。

 ◇シーア派とスンニ派の違い

 79年2月パーレビ王政は倒れ、パリから凱旋(がいせん)帰国したホメイニ師を中心としたイスラム保守派が権力を握った。左派は地下に潜り、一時激しいテロを展開したが、最後は国外亡命を余儀なくされた。

 なぜイランで法学者や社会学者がイデオローグとして革命を引っ張ることができたのか。逆に言うならば、思想家が理論的根拠を与えなかったが故に「アラブの春」は一時的な民衆の反乱で終わってしまったと言うこともできる。結論を言うなら、同じイスラム教でも、シーア派とスンニ派の違いが、ここにはあるように思われる。

 シーア派はイランのイスラム教徒の95%を占めるが、イスラム全体で見れば少数派で、大多数はスンニ派である。シーア派はイラン以外ではイラク、レバノン、サウジアラビアなどの一部に限られる。

 イスラムの最高規範はコーランとハディーズ(開祖ムハンマドの言行録)で、イスラム法学者がこれを解釈して社会的規範としてきた。しかしスンニ派は10世紀、この世の問題は出尽くし、それに対する解釈も出尽くしたとして、解釈を停止した。これを「イジュティハード(教義決定や立法行為)の門が閉ざされた」という。さまざまな解釈が乱立して混乱するのを避けるためだった。

 これに対してシーア派は解釈を停止しなかった。ホメイニ師とシャリアティ氏の理論が人々に受け入れられたのはこのためだ。スンニ派だったら2人の教義と理論は「異端」として退けられていただろう。

 シーア派では解釈が乱立する半面、常に時代に即した解釈が提起される。スンニ派と比べた時のダイナミズムは明らかだ。たとえば臓器移植一つとっても、10世紀の解釈を基に判断を下すスンニ派の時代錯誤は明らかだ。一部にイスラム教が時代に合わない宗教との印象を与えているのはこのスンニ派の姿勢が影響している。

 ◇次々に新しい解釈

 いまのイランでも新しい解釈が提起されている。多くがイスラムと民主主義の整合性の追求で、多くの若者の注目を浴びている一人がアブドルカリーム・ソルーシュ氏だ。

 同氏は薬学を専攻し、英国に留学。ここで西洋哲学と神学を学び、イスラム教を新しい視点から解釈し直した。イラン革命で帰国し、若手イデオローグとして政教一致の体制イデオロギーのベラヤテ・ファギを理論面から支え、学制改革や文化政策にかかわった。

 しかし宗教と民主主義の関係を研究する中で体制批判を強め、98年には主宰する雑誌の廃刊命令を受けた。その後、国を追われ、現在は米欧の大学でイスラム哲学の講義をもっている。

 彼はベラヤテ・ファギは否定しない。ただ最高指導者である法学者のよって立つ権威の根拠を、体制側理論では「神」としているのに対し、「人民」とする。したがって人民が忌避した時は最高指導者はその地位を降りなければいけない。ここにソルーシュ氏はイスラムと民主主義の整合性を求める。

 また彼はその著作で「真実は一つではなく、それぞれの場所にそれぞれの真実がある。知の向上のためには、他の真実にも目を向けなければならない」と語る。ここには価値の相対化というポストモダンの考えがあり、イスラム教を絶対価値とする現体制への批判に通じている。

 ◇イランが持つ知的ダイナミズム

 おそらく現在のイランでも、知識人、法学者たちからシーア派理論の新たな解釈が生まれ、さまざまな場で、もまれているはずだ。

 イランは政治、外交的に苦しい立場にあるが、この国がもっているこうした知的ダイナミズムはもっと知られていい。たとえばイラン革命の初期、何人もの政府幹部がテロの犠牲になったが、必ず新たな人物が現れ、政権を引き継いできた。

 この人材の層の厚さと多様な知識人の存在は、アラブと比べても一頭地を抜いている。そこにはシーア派とスンニ派の違いも大きく投影されていると私は感じている。【客員編集委員・西川恵】