ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(5)

AI要約

長崎港での幕府の奉行の上陸許可待ちで起きた精神異常と自殺未遂のエピソード。

四人が仙台藩の役人に引き渡され、江戸に送られ、そこで『環海異聞』という書物にまとめられた。

ロシアの使節として長崎に送り届けられた際の冷淡な応対により、両国間に問題が生じる。

南樹が水主たちの足跡を求めてフロリアノポリスを訪れたり、仙台での墓石調査を行ったエピソード。

彼の金銭に無縁の生活や歌人としての一面も描かれている。

訪日時の困難、体力の問題からの諦めにも触れられている。

歴史的な出来事と南樹の活動を通して、異国との交流や足跡調査などの興味深い物語が綴られている。

江戸時代末期の外交事情や生涯を通じた南樹の活動に焦点が当てられている。

現代における過去の出来事の追体験や探求の姿が描かれている。

ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(5)

 長崎港では、幕府の奉行の上陸許可を待たされた。お役所仕事で手間取り、ために太十郎は精神に異常を来し、刃物で自殺をはかった。一時は危篤となったが、助かったという。

 やがて四人は、迎えに来た仙台藩の役人に引き渡され、江戸に送られた。

 江戸では同藩藩侯が、家臣の大槻玄沢(蘭学者)、志村弘強(儒学者)らに命じて、四人の体験談を聞き取らせ、書物にまとめさせた。

 これが『環海異聞』である。

 玄沢は「未曾有の一大奇事にして…(略)…古今三千年来…(略)…の奇話異聞なり」と、その驚きを文字にしている。

 『環海異聞』の記事の中には、デステーロの風景描写が載っており、 

「湊は大なれども入り海にて、至って浅く、大船は岸に寄る事能わず…(略)…英船二隻、異国船二隻碇泊中…(略)…此の地の舟は細長く笹の葉の如し…(略)…此の地極熱、冬季なし…」 

 などとある。

 四人が上陸して見た町、家屋の造り、食物、果実、野菜、動物などが絵図つきで記されている。

 一方、四人を長崎に送り届けた使節レザノフにとって幕府側の応対は、意外にも冷淡かつ非礼であった。

 実はロシア側は、その十二年前、やはり別の漂流民であった大黒屋光太夫ら二人を蝦夷のネモロ(根室)まで送り届け、国書を幕府に差し出していた。その時は、丁重な応対ながらも実は追い返された。さらに、その十二年前も似たようなことが起きていた。

 レザノフは激怒、その感情が尾を引き、以後、両国間に波風が立つ。それは江戸時代末期に関する史書類に詳しい。

 南樹は『埋もれ行く……』の再版の十一年前、若宮丸の水主たちの足跡を求めて、一人、フロリアノポリスを訪れている。一九五八年のことで、八十歳であった。

 生涯、金銭には無縁の生活を送った彼は、この時も、費用については「貧困の懐中を傾けた」と自身、記している。

 現地では、州政府の役人や地元の歴史学者を訪ね「百五十五年前に、日本人四人を乗せて寄港したロシア軍艦」に関する資料を探した。

 そんな大昔、ただ寄港しただけの外国船の記録など残っている筈はないのだが、大真面目であった。

 結果的には、やはり何も得られなかった。やむを得ず、海岸を散策、往時を偲び短歌を詠んだ。彼は歌人でもあった。但しその歌は、ひどく素人臭い。

 ついでながら記しておくと「南樹」は、彼が歌を作った時に使った号である。それ以外、例えば前記の二冊の著書の執筆者名は「貞次郎」を使用している。が、世間では南樹の方が通りが良かったし今もそうである。それで筆者も、こちらを使用している。

 話を戻すと、フロリアノポリス行だけでも驚きだが、南樹は二年後の一九六〇年、訪日して水主の一人の墓石を求めて、仙台を訪れている。墓石が現存することを、何かの資料で知ったらしい。この訪日は別の用件も兼ねていたが、仙台行は主目的の一つであった。

 時に八十二歳。取材に協力した地元の人も呆れたのであろう、墓石のある場所が辺鄙すぎることを理由に、現地入りは止めるよう忠告した。南樹はそれに従ったが、諦めた動機は体力の問題ではなく、旅費の不安であった。訪日経費はサンパウロの友人たちの醵金に頼っていた。