首里城の地下「沖縄戦の軍司令部壕」、水浸しの床に複数の空き瓶…一般公開を視野に保存進む

AI要約

沖縄県は22日までに、旧日本軍が那覇市・首里城周辺の地下に構築した第32軍司令部壕の一部を報道陣に公開。一般公開を視野に保存を進めている。

公開された司令部壕では、司令官室や作戦室が紹介され、沖縄戦の戦跡として重要な位置づけられている。

沖縄戦における重要な決定が行われた場所である司令部壕内は、多くの住民を巻き込んだ戦いの舞台として歴史的な意義を持つ。

 沖縄県は22日までに、旧日本軍が那覇市・首里城周辺の地下約10~30メートルに構築し、太平洋戦争末期の沖縄戦で重要作戦立案の舞台となった第32軍司令部壕(総延長約1キロ)の一部を報道陣に公開した。79年前の5月22日、多数の住民を戦火に巻き込むきっかけとなった「南部撤退」が決定された場所で、県は住民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦を象徴する戦跡として一般公開を視野に保存を進めている。

 公開されたのは、司令官・牛島満中将の「司令官室」があった「第3坑道」(約30メートル)と、作戦室や無線室があった「第2坑道」(約70メートル)で、報道機関の代表社が4、5月に撮影した。高さ、幅とも1~3メートルほど。司令部壕では将兵ら約1000人が活動していた。

 県によると、第3坑道は、崩落を防ぐために1990年代に県が設置した構造物の間から砂岩がのぞき、床面は水浸しになっていた。一角には複数の空き瓶が残されていた。司令官室は、米軍が45年6~7月に撮影した写真では机や椅子、木材の仕切りなどが写っていたが、現在は何もなかった。

 司令官室の隣にあったとされる参謀寝室は、目視で確認できなかった。45年5月21日夜、劣勢の中で牛島中将らが作戦を話し合った場所で、首里決戦を唱える案も挙がったが、翌22日に本土防衛のため持久戦に持ち込むことを決定。壕内を爆破して本島南部に撤退した。多くの住民が避難していた南部は、軍人と民間人が混在する戦場となり、犠牲者が一気に増大した。

 一方、第2坑道は、最大1メートル超の岩が多数転がっていた。

 県は90年代半ばに壕の試掘を行い一般公開を検討したが、安全性が確保できずに見送った。2019年の首里城火災を契機に地下の司令部壕の保存を求める声が高まり、県は20年に「第5坑道」を報道陣に公開。今年4月には第1坑口の場所を特定した。県は25年度に第5坑口、26年度に第1坑口の公開を目指している。