【ザ・グレート・カブキ連載#18】ジャイアント馬場さんの〝代役〟で凱旋帰国 連日超満員に馬場さんが…

AI要約

1983年2月、ザ・グレート・カブキが一時帰国し、全日本プロレスで凱旋試合をすることになる。

カブキが日本での人気を驚き、毒霧技を披露し、子供たちに大人気だった。

しかし、帰国後に馬場さんからの給料上げの要求に失望し、すぐにダラスに戻る。

【ザ・グレート・カブキ連載#18】ジャイアント馬場さんの〝代役〟で凱旋帰国 連日超満員に馬場さんが…

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(18)】すでに米国での悪役としての地位を確立し、各地を巡ってビッグマッチを戦っていた1983年2月、一時帰国することになりました。当時の全日本プロレスでブッカーをやっていた日本プロレス時代の後輩、佐藤昭雄(※1)からオファーがあったんです。このシリーズは終盤までジャイアント馬場さんがセントルイス遠征で欠場することになっていたから、動員の苦戦を予想した昭雄が「じゃあ、カブキさんを呼びましょう」と声をかけてきたそうです。

 でも「ザ・グレート・カブキ」になった自分が日本で認知されているなんて思っていなかったですからね。昭雄から「カブキさん、お願いします」って頼まれたとき「俺が行ったってしょうがねえだろ」って断ったんですよ。だけど「お願いします」って言うから帰国することにしました。余談ですが、帰国したら全日本の事務所のヤツに「カブキさん、借金が残っているんですけど」って言われてね(笑い)。「え? なんのこと?」って聞いたら「アメリカに行く飛行機代が…」って。5年前に渡米したときの航空機代を払っていないって言うから「バカヤロー、そんなの普通、会社が持つんじゃないのかよ」って。笑っちゃいましたけどね。

 話を戻すと、83年2月11日に後楽園ホールでジム・デュラン(J・J・ディロン、※2)を相手に凱旋試合をしました。ふたを開けたら超満員。当日はカメラマンが50人くらいいたらしいです。日本でそんなに人気があると思っていなかったから最初は“何かと間違えてるんじゃないか?”と思っていました。多分、普段見られないものを見られるっていうのもあったんでしょうね。子供たちは毒霧を喜んでくれましたね。みんなマネするから、学校で禁止になったなんて話も聞きました。そんな調子でその後のシリーズも2~3週間どこも超満員になりました。

 すると、そのシリーズの終盤に、セントルイスから帰ってきた馬場さんの機嫌がまあ悪くて…。馬場さんの中では「俺がいないから客入らねえだろう」と思っていたんでしょう。そしたら予想外の連日超満員でしたから。それでなのか、帰国するなり馬場さんからくぎを刺されたんです。「先輩たちより給料上げられないぞ」って。

 そんなこと言われたらガックリでしょ? やってられないからすぐダラスに帰りましたよ。馬場さんから「次のシリーズも出てくれ」って言われたけど(苦笑い)。 

 ※1 北海の猛虎。ザ・グレート・シンジャとしても知られ、WWFでは選手、フロントとしても活動した。

 ※2 2014年NWA殿堂入り。日本では「極悪仕掛け人」とも呼ばれた。