「義手のレッスンプロ」小山田雅人の道のりを独占取材!

AI要約

プロゴルファーの小山田雅人氏の生涯と持続的な困難について紹介。

右手首の事故からの障害を乗り越え、ゴルフの世界で活躍してきた不屈のプロ。

家族の支援、前向きな考え方、ゴルフへの情熱など、小山田氏の人生を簡潔にまとめた。

「義手のレッスンプロ」小山田雅人の道のりを独占取材!

これほどまでの艱難辛苦を与えられ、そして乗り越えてきたプロがいるだろうか。幼い頃の事故で右手首から先を失い、「義手のトップアマ」として活躍。その後も脳腫瘍、心筋梗塞、そして脳梗塞と、生死に関わる重篤な病気と闘ってきた。そしていまも病を抱えながら「義手のレッスンプロ」として技術と精神とをアマチュアに伝授している。。2024年10月号の「月刊ゴルフダイジェスト」に掲載された、不屈の男・小山田雅人プロの「ターニングポイント」をお届けする。

1967年生まれ、栃木県出身。国内外の障害者ゴルフ大会で数多く優勝。25年間務めた栃木県職員を退職し、14年PGAティーチングプロB級会員に合格(24年からA級)。日本障害者ゴルフ協会理事、ジャパン・ハンディキャップゴルフ協会理事

右手首から先が、彼にはない。

しかし、「ないもの」を求めない。「あるもの」だけを見て考える。

そんなシンプルな思考で、幼い頃からいつも前向きに生きてきた。

左手と、右の義手。「あるもの」を駆使し、ゴルフという生きがいを獲得していった。

「父の正男が精肉店を営んでいて、物心ついたときにはもう左手だけで店の手伝いをしていました。事故に関して父から何も聞かされたことはなかったんです。生まれつき、右手は手首から先がないものだと思い込んでいました。

小学校6年生のある日、テレビの取材があり、私とは別室で、両親がインタビューに応えていたんです。私には何を話していたのかはわかりませんでした。後日、その放送を見たことで、自分の事故のことを初めて知りました。挽肉を作る機械に、2歳の私が手を入れてしまったと。母のサト子がおぶっていたはずの私を、店が忙しくて置いてしまったと後悔していました。『私の責任です』と。

それを見たとき、両親をこれ以上追い詰めるのはやめようと思い、事故のことはもう聞きませんでした。実は事故直後は手の甲の半分ぐらいが残っていたけど、いずれは義手になるからと、医師の判断で手首も切断したと父から聞いたのは、ほんの10年ほど前のことです。

両親は私を特別扱いせず、3人の兄妹たちと同じように厳しく育ててくれました。右手がないから鉄棒ができないことで、小学校でいじめられました。泣きながら帰ると、『右手がないことは悪いことなんかじゃないと、相手に言い返してきなさい』と家に入れてもらえませんでした(笑)。

高校まで野球をやり、中学ではエースとして県大会の決勝まで勝ち進みました。結果がいいと『スゴイ』。悪いと『お前のせいだ』と言われていました。どうしてもメディアから注目されてしまうので、他の選手が緊張してしまうと。私の存在を迷惑に思う父母もいたのでしょう。相手チームの監督までもが、『障害者の投手相手にはバント攻撃ができなかったから』と敗因を語られていました。バントされてもいいように、私たちはたくさん練習してきたのに、また障害のせいか、団体スポーツは、つまらないなと。

小学校高学年のとき、ゴルフを覚えました。父のクラブやボールを借り、小高い位置にある田んぼをグリーンに見立ててね。周囲からそこを狙ったり、空缶を埋めてパットをしたり。当時はただの遊びでした。本格的に始めたのは、栃木県職員になった19歳のときです。団体スポーツとは異なり、ゴルフは自分とコースとの闘いでした。私の障害も、他の人にはまったく関係がない。それが心地よかったんです」