パリ五輪の新競技ブレイキン 先駆者・風見しんごさん、40年後の後輩へ「楽しんで」

AI要約

ブレイキン(ブレイクダンス)がパリ五輪で唯一新たに採用された競技となり、日本はメダル獲得が期待されている。先駆者の風見しんごさんが、40年前に自身の曲の振り付けに取り入れたのがきっかけだった。

風見さんはニューヨークで若者たちからブレイクダンスを学び、帰国後はレコード会社の協力を得てブレイクダンスの練習を重ねた。テレビ番組での披露がきっかけで、ブレイクダンスが日本中に広まっていく。

萩本欽一さんの助言もあり、風見さんはブレイクダンスを普及させるきっかけをつかんだ。今回のパリ五輪での競技採用を機に、風見さんは選手たちに成功を祈るメッセージを送っている。

パリ五輪の新競技ブレイキン 先駆者・風見しんごさん、40年後の後輩へ「楽しんで」

パリ五輪で唯一新たに採用された競技が、ブレイキンだ。ブレイクダンスの名でも知られるアクロバティックなダンスは米国発祥だが、日本はメダル獲得が有力視されている。それを日本に広めた先駆者が、タレントの風見しんごさん(61)だ。自身の曲「涙のtake a chance」の振り付けに取り入れたのが昭和59年。当時は将来、五輪競技になることなど思いもよらなかった。40年が過ぎ、パリで踊る選手とも交流がある風見さんは「今の選手たちは華麗な蝶。失敗を恐れず楽しんでほしい」とエールを送る。

■単身ニューヨークへ

風見さんがブレイクダンスと出合ったのは、昭和58年、初のレコード「僕笑っちゃいます」が発売され、お茶の間のアイドルとして認知度を上げていた頃だった。同年公開の映画「フラッシュダンス」のワンシーンに衝撃を受けた。

路上でバックスピン(地面に着けた背中を軸に回転する動き)やムーンウオーク(地面を滑るように歩く動き)を披露する若者たちに、目を奪われた。わずか1分ほどの場面だったが「心の底から、『この動きをしてみたい』という思いに駆られました」

技の名前も分からず、国内の著名な振付師らに尋ねたが「そんな踊りは知らない」。ならばと単身、ダンスの本場である米ニューヨークへ飛んだ。街頭でブレイクダンスをしている少年らを見つけると、「ティーチミー」とつたない英語で教えをこうた。約10日間の滞在だったが、熱心さが伝わったのか、少年らも応じてくれた。

帰国後は新宿・歌舞伎町のディスコなどにも顔を出し、ブレイクダンスの素養がありそうな人を探した。レコード会社側も協力し、数人のバックダンサーが集まった。なんとか練度を高め、自身のコンサートツアーの曲間でウインドミル(腕や背中を軸に開脚したまま回転する動き)などを披露すると、思いのほか反応は良かった。

59年、芸能界の師匠である萩本欽一さん(83)の番組「週刊欽曜日」で、風見さんがエンディング曲を歌う話が持ち上がった。テレビでもブレイクダンスを見せたいと思っていた風見さんだったが、用意されていたのはそぐわないバラード調の曲。浮かない様子の風見さんの心中を察した萩本さんから「何かやりたいことがあるならやってみろ」と促され、ブレイクダンスを披露した。すると、萩本さんは首をひねりつつも「見たことがない動きだし、面白さはある」。続けざま「この動きに合う曲を、レコード会社に持ってこさせて」とスタッフに伝えた。

その日のうちに届いたのが「涙のtake a chance」。希望通り、振り付けにはブレイクダンスが採用され、テレビ局には学校の教師から「子供たちが興味を持ち、今度の体育祭の応援合戦に取り入れようと思います」といった手紙が届いた。日本中にブレイクダンスが広まるきっかけになった。