【ブル中野連載#17】「私がいたらやりづらい」アジャコングに全女を託した後、声がかかったのは…

AI要約

1992年11月26日の全日本女子プロレス・川崎市体育館大会で、ブル中野がWWWA世界シングル王座を手放す。長い保持期間を持った彼女が負けることによる自身の考えや覚悟について振り返る。

ブル中野は負けたことが大きいと感じ、チャンピオンとしての責任を痛感する。負けることへの覚悟や、後輩に勝たれた時の自信の取り戻し方を考える。

負けることに恥じることなく、リングで全てを見せようとする姿勢。その後、25歳の誕生日を迎え、全女の制度に挑戦することで将来について模索する。

【ブル中野連載#17】「私がいたらやりづらい」アジャコングに全女を託した後、声がかかったのは…

【ブル中野・告白(17)】1992年11月26日の全日本女子プロレス・川崎市体育館大会。アジャコングに負けて、ついにWWWA世界シングル王座を手放しました。ベルトを取ったのは90年1月4日なので、最長保持期間記録は1057日でストップです。会社からは「悪役にはベルトのチャンスは与えないからな」と言われていたのに、約2年11か月ですか…長っ!(笑い)。

 この試合は“強いブル中野”として負けたことが大きかったと思います。私はダンプ松本さんとクラッシュ・ギャルズさん(長与千種&ライオネス飛鳥)に一度も勝てないままチャンピオンになってしまった。後輩の西脇充子に勝って、繰り上げみたいな形のチャンピオンでした。しかもダンプさん、クラッシュさんが引退してお客さんが入らない苦しい時期が続いたのは、全てがトップである自分の責任だと思っていました。

 もちろん、負けようと思って負けているわけじゃないんです。だけど、自分がもし誰かに負ける日が来るなら、精一杯やって堂々と負けるのがいいなって考えていました。そんな私に勝った後輩は、すごい自信がつくだろうなと思ったからです。だからアジャにしても、井上京子にしても北斗晶にしても、タイトルマッチではそういう心境で臨んでいました。

 それに、私は負けていくことが、まったく恥ずかしいと思っていなかったのです。人間なんだから、いい時もあれば、必ずいつかは落ちていく。恥ずかしい部分も含めて、全てリングの中で見せようと思っていました。そこが今までのスーパースターだったクラッシュさんやダンプさんたちとは違ったのかなって感じていました。

 アジャに負けた後にもやるべきことがありました。93年の1月に私は25歳の誕生日を迎え、当時の全女にあった「25歳定年制」を自分が破ってしまうことになるからです。この制度がなくなった後、どう生きるのかを後輩たちに示さないといけなかったんです。だからといって、負けた後もずっと全女にいるのもおかしいと思って。アジャにバトンタッチしたし、アジャが先頭に立ってやっていかなくちゃいけない。私がいたら、やりづらいだろうなっていうこともありました。

 じゃあ、これからどうしようかなって思った時に、たまたま米国のWWF(現WWE)から声がかかったんです。このタイミングで話が来たことに「WWFに行って、海外との懸け橋をどんどんつくっていくのが私の生き方なんだな」と勝手に解釈しました。こうして全女に籍を置いたまま米国に旅立ちます。もちろん、不安もありました。英語も話せないのにたった1人で海を渡るわけですからね。その不安はすぐに的中するのです。