野茂英雄が報道陣に「撮らないでください」メジャー1年目の夏に起きた異変…記者が見た“トルネードの焦燥”「もう説明を受けたでしょ?」

AI要約

1995年7月11日、野茂英雄が日本選手として初めてメジャーリーグのオールスターのマウンドに立った。野茂は途中で調子を落とし、登板時に手の怪我に悩まされるも、成功を収めた。

野茂はメジャーリーグでの活躍を支えるために、最新のトレーニング理論や食生活の管理に取り組んでいた。彼の努力と専心が成果を生んでいた。

しかし、8月になると疲労や怪我の影響で野茂の成績が低下していき、アクシデントに見舞われる場面も。彼は厳しい試練に直面していた。

野茂英雄が報道陣に「撮らないでください」メジャー1年目の夏に起きた異変…記者が見た“トルネードの焦燥”「もう説明を受けたでしょ?」

 1995年7月11日、野茂英雄が日本選手として初めてメジャーリーグのオールスターのマウンドに立った。今から29年前、メジャー1年目の終盤戦を取材すべく、真夏のロサンゼルスに降り立った一人の若手スポーツ紙記者がいた。任務は「野茂を追え」。急きょ渡米を命じられた筆者が当時を振り返る。(全14回の第10回/初回から読む)

「トルネード旋風」が吹き荒れた1995年、私が「野茂番」として渡米、メジャー取材をスタートさせたのは8月29日のことだった。

 アメリカから伝わってくる野茂英雄の「夏の快進撃」には、目覚ましいものがあった。

 6月2日、7度目の先発でメジャー初勝利を挙げると、そこから一気に6連勝。7月11日の球宴前までにレギュラーシーズンで13試合に先発、90回3分の1を投げ、奪三振を119まで積み上げた。この9イニング平均「11.9」の奪三振は、アストロズ時代の1978年にノーラン・ライアンが樹立した当時のメジャーリーグ記録「11.5」も上回っていた。

 ライアンは、46歳での現役ラストシーズンでも98マイル(157.7キロ)の速球を投げ、メジャー実働27年で今なお不滅の通算最多奪三振記録「5714」を誇る剛腕だ。野茂はライアンとレンジャーズ時代のコーチであるトム・ハウスの共著『ピッチャーズ・バイブル』を繰り返し熟読していたという。

 中4日の登板間隔の中で、ブルペンでの投げ込み数は抑え、登板直後の回復期、登板直前の準備段階など、調整時期に合わせてのウエートトレーニングやコンディショニングを行っていく。さらには食生活の管理など、1990年代前半の日本球界では全くといっていいほど聞くこともなかった、最新鋭のトレーニング理論。野茂もそれを学び実践し、着実に成果を挙げていた。

 しかし、夏の強い光に照らされたトルネードは、その影が徐々に濃くなっていった。

 蓄積された疲労が、タフなはずだった心身に少しずつダメージを与えていたのだろう。8月に入り、5日のジャイアンツ戦ではメジャー3度目の完封で9勝目を挙げるが、以後の4試合では1勝3敗と成績が落ち込んでしまう。25日のフィリーズ戦では、3回7失点で降板していた。

 私にとっては、8月31日が「ドジャース・野茂」のマウンドを、実際に自分の目で、初めて見る機会だった。その27歳のバースデー登板は、右手中指の爪が割れ、メッツ打線を2安打に封じていた8回1死で緊急降板となった。中4日で臨んだ9月5日のフィリーズ戦も、5回1失点の好投を見せていながら、右手中指に入っていた7mmほどの縦割れのヒビの付け根に接する形で、今度は横方向にもヒビが入って降板。本拠地・ドジャースタジアムでの2試合でアクシデントが続いていた。