「えらい世界に来たな…」巨人ドラ1捕手がブチ当たったカベと重圧、戦力外「焦りが先行していました」東海大相模の監督で今、生かすこと

AI要約

原俊介監督は、プロ野球での苦しい経験を経て、アメリカでのトレーニングを通じて自身の野球人生を変えたことを語っている。

練習量だけでは追いつけないと感じ、アメリカでのトレーニングでフィジカル面を改善し、テクニカル面にも変化が訪れた。

自らの経験から、「もっと早く行動していれば」という後悔を受け入れつつも、人生の選択に後悔はないと語っている。

「えらい世界に来たな…」巨人ドラ1捕手がブチ当たったカベと重圧、戦力外「焦りが先行していました」東海大相模の監督で今、生かすこと

 この夏も始まる甲子園への道。日本列島の中で最も激戦区と言われる神奈川県の各校監督はどのようなことを考え、球児と向き合っているのか。『高校野球激戦区 神奈川から頂点狙う男たち』から一部転載で東海大相模・原俊介監督(46)の稿からご紹介します(全5回の第4回/第1回、第2回、第3回、第5回も配信中)

 高校時代は強肩強打のキャッチャーとして注目を集め、1995年のドラフト会議で巨人から1位指名を受けた。当時、東海大相模から高卒1位でのプロ入りは初。周囲からの期待も、自分への期待も大きかったが、1年目の春季キャンプで圧倒的な力の差を感じた。

「えらい世界に来たな……と思いましたね。打つのも投げるのもレベルが違いすぎる。斎藤雅樹さんの球をブルペンで受ける機会があったんですが、スライダーがミットにかすりもせず、『お前、大丈夫か? 』と心配されるほどでした。どうすれば、この世界で生き残れるのか。練習量だけでは追いつけない。答えはわかりませんでした」

 必死に練習をして、ファームの中軸を任されるまでになったが、一軍の壁は厚かった。ファーストや外野も守り、出場機会を求めた。7年間一軍出場はなし。戦力外通告がちらつき始めた中、7年目のシーズンオフに単身でアメリカに渡り、フロリダ州にあるIMGアカデミーのトレーニングキャンプに参加した。今でこそ、アメリカでトレーニングをするのは珍しいことではないが、当時は稀。およそ3週間にも渡る武者修行だった。

「自分を変えなければいけない。勝負をかけなければいけない。その一心でした。はじめは通訳もいたんですけど、途中からは全部ひとり。朝から動き作りのプログラムがあって、みっちりトレーニングをやった結果、足がよく動くようになり、明らかに速くなったのがわかりました。バッティングをやると、今まで入らなかった右中間にもホームランが出る。体の動かし方が変わったことで、神経の伝達が良くなり、パフォーマンスが上がった。フィジカルによって、テクニカルが変わる。自分の野球人生を180度変えてくれた体験でした」

「もっと早く渡米していれば……」という気持ちも少なからずあったが、「それもまた人生」と受け入れている。