フランスに息づく日本柔道の理念―川石酒造之助が伝えたもの

AI要約

川石酒造之助はフランス柔道の父と呼ばれる日本人で、独自の手法で柔道を広めた。

川石は日本からフランスへ渡り、七色の帯を導入するなど、独自の改革を行った。

戦争によって活動が中断された川石だが、指導者たちによってフランスで柔道は続けられた。

フランスに息づく日本柔道の理念―川石酒造之助が伝えたもの

滝口 隆司

「フランス柔道の父」と呼ばれる日本人がいた。戦前にフランスへ渡り、柔道を広めた川石酒造之助(かわいし・みきのすけ、1899~1969)である。帯の色を七色に分けるなど、「川石方式」と呼ばれる独自の手法でフランスに柔道を浸透させた。7月26日開幕のパリ五輪を前に、日本とフランスを結んだその功績に改めてスポットライトを当ててみたい。

1899年、川石は兵庫県飾磨郡手柄村(現姫路市)で生まれた。造り酒屋の五男であり、酒造之助という名前もそこから付けられている。幼い頃から柔道に打ち込み、姫路中学(現姫路西高)、早稲田大学を卒業後、東京市役所(現東京都庁)や工兵隊を経て海外へ。最初は留学のために渡米したが、米国で柔道の指導を始め、南米を回った後、英国でも普及に努めた。1935年からはフランスに移り、パリで柔道クラブの経営や指導に乗り出した。

川石は日本流の柔道をそのまま外国に持ち込んでも、競技を広めるのには苦労すると考えていた。そこで、柔道を始めた人が常に目標と向上心を持って競技に取り組めるよう、七色の帯を考案した。年齢やレベルに応じて白、黄、オレンジ、緑、青、茶、黒と帯の色が変わっていく。日本では基本的に白と黒だけだった。

フランス人に分かるようにと、技の名称も変えた。柔道の総本山である講道館が技の名称を決めているが、川石は技を分類して番号を付け、「大外刈り」を「足技1号」、「背負い投げ」を「肩技2号」などと改めた。

こうしたやり方は「メトード・カワイシ(=川石方式)」と呼ばれる。川石は伝統ばかりにこだわるのではなく、その国の人々に理解を得るためには元の形を変えることもいとわなかった。「柔道は米か麦のようなものだ、土地に合わせなければならない」。そんな信念を持っていたという。

だが、戦争によって川石の活動は中断を余儀なくされる。第2次世界大戦で、ドイツがフランスを占領。しかし、米英を主力とする連合国軍の反攻によって、形勢が逆転した。日本はドイツと同盟関係を結んでいたため、捕虜となる恐れがあった川石はパリを脱出せざるを得なくなり、ベルリンからシベリア、満州を経由して日本に帰国した。

その間もフランスでは川石が育てた弟子たちが、指導者として柔道を広めていった。川石はしばらくの間、故郷の姫路で過ごし、1948年、再びパリへ戻った。フランスでの再出発だった。

一方、日本から講道館の指導者もフランスにやって来た。ところが、川石との間で摩擦が起きた。「川石方式」が従来の日本の指導法とは異なったからだ。また、川石の柔道クラブでは指導者の生計を成り立たせるため、会員に高額な月謝の支払いを求めていた。これに対し、講道館派は「アマチュアリズム」を主張し、46年に設立されたばかりのフランス柔道柔術連盟は、分裂の窮地に立たされた。

51年に国際柔道連盟が創設されると、フランスでも国内を統括する組織の立て直しが迫られた。結局、川石派と講道館派は統合し、さらに剣道やなぎなたなど、他の武道も巻き込んで新たな組織をスタートさせる。川石はその数年後、指導者の座を退くことになったが、柔道は64年東京五輪で正式競技に採用され、国際的なスポーツ「JUDO」として認知度を高めていった。