【プレイバック’94】国立競技場5万5千の観衆が「ジーコ!」と…〝神様〟が2度目の引退をした日

AI要約

1993年に開幕したサッカーJリーグにおけるジーコの活躍と引退について報じられたニュース。

ジーコが日本サッカー界に及ぼした影響とその後の活動について。

ジーコの引退から30年を迎えた際の記念行事や現在の活動について。

【プレイバック’94】国立競技場5万5千の観衆が「ジーコ!」と…〝神様〟が2度目の引退をした日

10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたび振り返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の1994年7月8日号掲載の「さよならジーコ!『引退の夜 日本が泣いた』」をお届けする。

1993年に開幕したサッカーJリーグはリネカーやリトバルスキーら世界クラスの超大物選手を各チームが招聘したことでも話題だった。その中でも日本人にとって一番忘れられない存在となったのは、ブラジル代表として3度のW杯で活躍した〝神様〟ジーコだろう。そんな彼の鹿島アントラーズでの現役最後の試合となったブラジル・CRフラメンゴとのプレシーズンマッチ終了後の様子だ(以下《 》内の記述は過去記事より引用)。

◆〝スーパースター〟がわずか数百人の観客の前で

《「ジーコ! ジーコ!」

6月21日、試合終了と同時に国立競技場を埋めつくした約5万5千の大観衆から大合唱が湧き起こる。泣いている人もいる。この一戦を最後にサッカー人生に別れを告げた男は、目を潤ませながら、何度も何度も超満員のスタンドに手を振った。

「やっと終わったという気持ちです。この3年間の出来事が頭の中に次々と甦ってきています」

1991年、ジーコ(当時41)が鹿島の前身、住友金属でプレーするため来日したとき、サッカーはまだ日本ではマイナーなスポーツだった。サッカー界のスーパースターも、わずか数百人の観客の前でプレーをしなければならなかった。だが今、彼はW杯並みの大観衆から盛んに声援を送られている。

「今日のようにスタンドがいっぱいになって、本当に嬉しい。それこそ、私が日本で成し遂げたかったことでしたから」》

来日してからの3年間にはさまざまなことがあった。1993年の鹿島スタジアムでの開幕戦ではリネカー率いる名古屋グランパスエイトを相手にJリーグ初となるハットトリックを決めた。だが、ケガに苦しみ欠場することも多かった。また1994年、Jリーグ初代王座をかけてヴェルディ川崎(現・東京ベルディ)との一戦で相手側のPKボールにツバを吐いて退場となった「ツバ吐き事件」では激しいバッシングも浴びた。

《奇しくも引退試合の相手は1981年に初来日で世界一に輝いたときにいたフラメンゴ。ジーコにとり、最高の最後の舞台となった。そして彼は、外国人初の総理大臣顕彰と(鹿島町)名誉町民の栄誉を土産に、母国ブラジルへと帰っていった。

「日本での3年間をサッカーに例えると、延長戦という感じです。一度は選手生活を引退し、新たな挑戦をしたのですから」》

1989年に膝のケガで引退、ブラジルでスポーツ担当大臣となっていたジーコが1991年に当時JSL2部だった住友金属のオファーを受けたのは、1993年に始まるプロリーグへの参加が決まっていた同クラブの発展のためにアドバイスをすること、そして鹿島の町をフットボールで盛り上げるために力を貸すということに興味を持ったからだった。

ジーコが最初手をつけたのは、選手にプロとしての意識を植え付け、環境を整えることだったという。ジーコは’23年9月の『Number web』で当時の様子を次のように語っていた。

「ブラジルのアマチュアクラブと同じような練習環境。酒、タバコを嗜む選手がいた。チームが選手に提供していた食事はご飯、味噌汁、焼き魚といった〝老人食〟。アスリートが食べるべきものではなかった。練習施設、生活面の改善など、基本的な事柄からアドバイスをしていった」

Jリーグが発足すると、鹿島は“開幕後のファーストステージで優勝、その後も快進撃を続けてJリーグの歴史の中でも最強といわれるチームへと成長した。そしてチームの本拠地である人口4万5千人の鹿島町(現・鹿嶋市)もクラブチームによる地域活性化のモデルケースとして全国的に注目されることとなった。

その後も鹿島のテクニカルアドバイザーなどをつとめていたジーコは’02年から’06年まで日本代表監督をつとめ、ドイツW杯へと代表を導く。代表監督退任後はトルコやウズベキスタン、ロシアなどの国々のクラブチームを率いたあと、’18年から’21年までは再び鹿島でテクニカルディレクターをつとめた。退任後はブラジルに帰国したが、現在もアドバイザーとして関わり続けている。

今年の6月17日、ジーコの現役引退30年を記念する壁画がカシマスタジアムの壁に描かれ、除幕式が行われた。除幕式に参加したジーコは「これからも私自身、アントラーズとともに歩んでいきたいです」と語ったという。