15歳で「生存率10%」の難病が発覚…日本ハム・山崎福也の父が振り返る「小児脳腫瘍」からの復活劇「ダルビッシュ有に力をもらった…不思議だね」

AI要約

山崎福也投手が日本ハムでの活躍について、父との関係や移籍時の思いなどを明かす。

選手として成長するために自らの道を選び、日本ハムを選んだ決断について。

父・章弘さんが指導者としての苦労や家族との時間について振り返る。

15歳で「生存率10%」の難病が発覚…日本ハム・山崎福也の父が振り返る「小児脳腫瘍」からの復活劇「ダルビッシュ有に力をもらった…不思議だね」

 今季から日本ハムに移籍した山崎福也投手が活躍を続けている。4月9日のソフトバンク戦から6連勝するなど、登板10試合でチーム最多の6勝(1敗)を挙げる。山崎の父・章弘さんは、巨人、日本ハムでプレーした元プロ野球選手。「父と子」の関係は一体どのようなものなのか。現在は女子硬式野球チーム「兵庫ブルーサンダーズ」の監督を務める章弘さんに振り返ってもらった。〈全2回の1回目/後編も配信中〉

 期待通り、いやそれ以上かもしれない新天地での活躍に、父は少し驚き、何より安堵している。

「移籍を決めた時は正直、『なんで優勝したチームから最下位のチームにFAで行くねん』って思ったんです。でも開幕から2カ月見ていたら、すごく良いように使ってもらっているし、その期待に全部とは言わなくとも6、7割くらいは応えられている。もちろん、最終的には(契約期間の)4年間応え続けなきゃいけないですけどね。その辺はシビアですから、野球界は」

 昨年オフ、山崎がFA権を行使した際にはオリックス含めた6球団の争奪戦となり、章弘さんの元にも球団幹部や監督から挨拶が相次いだ。山崎はそれぞれの球団の話を聞き熟考していたが、同じ野球界に身を置く父はあえて口を挟まないようにしていたという。

「そんなの自分で決めないといけないでしょ。言ったのは『お金じゃないよ。自分が一番必要とされているところに行くのが一番いいんじゃないの』ってことくらい。野球やるのはあいつ。責任持てないですからね」

 その助言通り、山崎が選んだのは条件面では他球団より決して高くなかった日本ハム。父が選手、コーチとして在籍していた「縁」と、球団側の熱意が決め手になった。

「正直びっくりしました。あいつが日本ハムにそんなに思い入れがあったなんて思っていなかった。小さな頃のこと、覚えていたんですね」

 山崎が生まれたのは現役を引退した翌年の1992年。章弘さんは、日本ハムで「二軍トレーニング兼打撃コーチ補佐」として指導者としての一歩を踏み出したばかりだった。現在ではコーチの役割も細分化し、外部からスペシャリストも登用されているが当時はその数も少ない。リハビリ組や、二軍でも試合に出ない若手選手をまとめて請け負う「育成コーチ」のような役割を任された。

「トレーニングなんかそれまで何の知識もありませんでした。最初はただピッて笛を吹いてるだけ(笑)。投手のボールを捕って、野手にはノックして、打ちたいとなればバッティングピッチャーをして投げてあげる。何でも屋でしたよ」

 埼玉・所沢の自宅から日本ハム二軍の練習拠点がある千葉・鎌ケ谷まで、車で約1時間半かけて通う多忙な毎日。子育ては夫人の路子さんに任せきりになっていたが、月に1、2度福也と2歳上の兄・福之(ふくゆき)さん兄弟と触れ合う時間があった。学校が休みの土日に二人を乗せ、職場の鎌ケ谷に連れて行く。兄弟は、プロ野球選手の大きな“お兄ちゃん”たちに可愛がられた。