学びやは拷問と虐殺の場となった。国民の4分の1の命を奪った旧ポル・ポト政権。「むごい」。多数派の意見で突き進む危うさを思い知った

AI要約

トゥールスレン虐殺博物館は、ポル・ポト政権下の恐ろしい歴史を語る場所である。学校だった建物には拷問部屋や虐殺の痕跡が残り、中高生たちも驚愕した。

ポル・ポト政権は極端な共産主義を実行し、多くの人々を拷問や虐殺の末に命を奪った。200万人近くが犠牲とされ、影響は今も続いている。

カンボジアの悲劇を通じ、中高生は意見の多様性や人権の重要性に気づき、自らの価値観を見つめ直していった。

学びやは拷問と虐殺の場となった。国民の4分の1の命を奪った旧ポル・ポト政権。「むごい」。多数派の意見で突き進む危うさを思い知った

 コの字型に並んだ校舎と、こぢんまりした校庭は当時のままだ。外観は普通の学校だが、室内には拷問部屋や頭蓋骨、血痕など虐殺の跡が残る。ポル・ポト政権下で政治犯収容所だった施設を改修し、負の歴史を伝える国立博物館「トゥールスレン虐殺博物館」(プノンペン)。

 「笑い声があふれる校舎からは、悲鳴が上がるようになった」「二度と悲劇を繰り返さないために記憶の継承者になって」-。入場前は現地の人々と交流し歓声を上げていた中高生らは、日本語音声ガイドを聞き一斉に言葉を失った。

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 そこは、トゥールスワーイプレイという高校だった。当時のポル・ポト首相が率いたクメール・ルージュは、極端な共産主義の下、都市部の住民を農村部に移住させ、過酷な肉体労働を強制し多くを死に追いやった。学者や医者、教師ら知識人や少数民族、僧侶、その家族らを敵とみなし粛清したほか、「反政府思想」を疑い多くの一般市民を拘束、拷問の末に虐殺した。極秘収容所「S21」へと姿を変えた学びやは、拷問と殺害の場となった。

 大虐殺では当時の人口の4分の1に相当する200万人近くが命を奪われたとされる。その後も、同国の発展を阻害し、今を生きる人にも影響を与えている。ポル・ポト政権崩壊後に生まれた現地ガイドのチョーダさん(44)も貧困で高校進学はかなわなかった。「学べることは当たり前じゃない。今を大切にしてほしい」と中高生に呼びかけた。

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 女性の性器などをペンチでつぶしたりムカデにかませたりする絵、狭いれんが造りの独房、ガラスパネルを埋め尽くす犠牲者の顔写真…。川辺高校3年の中村龍心さんは「人権がなかったと痛感した。自分も高校生。学びやが変わり果てるなんて残酷すぎる」。

 加治木高校3年の浜田桃花さんは「こんなむごいことが起きていたなんて知らなかった。多数派の意見で突き進むのは危険だと感じた。さまざまな意見を尊重し反映するために、一人一人が意志表示することの大切さに気づかされた」と話した。

 中高生は「同じ国民の間で虐殺が起きるなんて」と驚いた。所得格差や性別、職業、差別…。日本でもあらゆるところに分断の種はある。中高生たちは、カンボジアの凄惨(せいさん)な記憶を、自分や自国に引き寄せて考えていた。

 ■トゥールスレン虐殺博物館 1970年代にカンボジアを支配したポル・ポト政権が首都プノンペンに設置したトゥールスレン政治犯収容所の跡に当時の拷問器具や犠牲者の写真などを展示する。1万2000人を超える収容者が拷問などで殺害されたとされ、確認された生存者は12人。通称「S21」と呼ばれた。同政権下の75年4月~79年1月、強制労働や処刑などで200万人近くが犠牲になったとされる。

 鹿児島県青少年国際協力体験事業で、県内の中高生16人が7月下旬、カンボジア・シェムリアップを訪問した。言葉や習慣の違いに戸惑いつつも次第に異文化に溶け込み、最後は涙を流し別れを惜しんだ。農村部でのホームステイや交流を通し、改めて自分自身と向き合った中高生の変化を追った。

※2024年8月9日付紙面掲載「カンボジア夏体験~鹿児島県中高生訪問記㊤」から