走り高跳び5位の赤松諒一、初五輪で成果 実践と反省、跳躍ひたすら探究 

AI要約

日本代表の陸上男子走り高跳び選手、赤松諒一が、パリ五輪で過去最高の5位に入賞し、88年ぶりの快挙を果たした。

赤松は異色の「三刀流ジャンパー」としても知られ、競技と並行して企業でシステムエンジニアとしても働いていた。

学生時代から競技に真剣に取り組み、科学的なアプローチを重視してきた赤松は、今後も理想の跳躍を目指す意欲を示す。

走り高跳び5位の赤松諒一、初五輪で成果 実践と反省、跳躍ひたすら探究 

 【パリ=本社・浜田悠】「そんなに面白い競技ではないですよ。走って跳ぶだけなので」。10日に行われたパリ五輪の陸上男子走り高跳び決勝で日本勢過去最高に並ぶ5位に入り、88年ぶりの入賞を果たした赤松諒一(29)=岐阜市出身=は、自身の種目を冗談交じりに紹介する。「でも極めようとすると、これが結構面白いんです」

 今年3月まで所属した企業では、異色の「三刀流ジャンパー」として話題を集めた。本職の競技者のほか、会社ではシステムエンジニアとして勤務。その業務の一環で、岐阜大医学部では研究生としての顔も併せ持った。

 競技との出合いは、高校時代にさかのぼる。小学5年から中学3年までの5年間は、長身を生かしてバスケットボールで活躍。精華中学校では全国中学校体育大会(全中)で16強入りを果たした。「高校でもバスケットボールを続けるつもりだった」という。

 加納高校の普通科に進んだ。まずバスケットボール部に体験入部したが、「顧問の先生がめちゃくちゃ怖かった」と入部届を出すことはなかった。ほとんどの部活動を見て回り、科学部も「面白そうだった」が、結局は友人の誘いで陸上部に。その決断が、その後の人生を変えた。

 才能は徐々に花開いた。県総体などで頭角を現し、3年生になると全国高校総体(インターハイ)で3位に入るまでになった。インターハイ直後に出した2メートル16の県高校記録は、今も塗り替えられていない。「勉強は得意だったかと言われると、真ん中くらい」とおどけるが、文武両道を貫いて岐阜大教育学部に進学。関東の強豪大学からも誘いはあったが、地元で競技を続ける道を選んだ。加納高時代を知る教員は走り高跳びの実績だけでなく、「とにかく真面目な生徒だった」と口をそろえるほどだ。

 岐阜大はスポーツに特化した学部や学科がなく、陸上部も学生が主体となって運営していたが、地道に成長を続けてトップジャンパーの一人に仲間入りした。「学生時代の出来事の中でも特に印象に残っている」のは、地元開催だった岐阜大院2年時の日本学生対校選手権(日本インカレ)。3度目の優勝を飾った。

 根っからの学者肌で、穏やかな人柄だ。競技に関する論文を読み込む姿勢は、高く跳びたいという向上心だけでなく、どうすれば人は高く跳べるかを研究する探究心そのもの。学生時代から指導する専任コーチの林陵平さん(35)も「アスリートらしくない雰囲気」と語る。科学的なアプローチを試みては実践と反省を繰り返し、学んでいく。さながら研究のような形で、競技生活を歩んできた。

 初めての五輪で果たした快挙。決して平たんな道のりではなかったが、照準を合わせてきた大舞台で自己ベストを更新する姿は、これまでの研究の成果を披露したようだった。「これからも理想の跳躍を目指していきたい」。走って、高く跳ぶ。奥深い研究テーマに、これからも挑んでいく。