「最北の藩政」敷いた松前藩の祖・武田信広の勝山館 アイヌとの抗争・和睦から蝦夷地支配へ/北海道の歴史と城②

AI要約

アイヌ勢によるコシャマインの戦いで和人が蝦夷島支配を強化し、武田信広が新たな支配者となる。彼は蠣崎氏を率いて勝山館を拠点にアイヌとの戦いを繰り広げた。

信広の子孫もアイヌとの衝突を続け、蠣崎氏は三守護体制を変化させて支配力を拡大。その残忍な一面も垣間見えるが、戦国時代の蝦夷島の情勢を象徴する存在だった。

蠣崎氏は巧みな戦略で実権を握り、日本海交易ルートや太平洋交易ルートを支配。その基盤を築き、江戸時代まで続く支配体制を構築した。

「最北の藩政」敷いた松前藩の祖・武田信広の勝山館 アイヌとの抗争・和睦から蝦夷地支配へ/北海道の歴史と城②

<コシャマインの戦いと道南十二館・志苔館 北海道の歴史と城①>から続く

アイヌ勢が蜂起したコシャマインの戦いは、アイヌの結束力を高めたと同時に和人が蝦夷島(えぞがしま)支配を強化した出来事といえる。鎮圧された後も両者の対立は断続的に続き、約70年後にようやく和睦したが、やがて再燃した。今回は、コシャマインの戦いの後から江戸時代の松前藩成立まで、武田・蠣崎(かきざき)氏による支配体制とその変化をたどりながら、武田信広が拠点とした勝山館(かつやまだて、北海道上ノ国町)をご紹介したい。

1457(長禄元)年、コシャマインをリーダーにしたアイヌ軍は、破竹の勢いで和人の「道南十二館」を次々に攻撃した。

なぜアイヌ軍が急転して敗北に至ったのかは定かではないが、総大将・武田信広の謀略によってコシャマイン父子は射殺され、蜂起は鎮圧された。

この武田信広が、蝦夷島の新たな支配者となり、やがて江戸時代の松前藩主・松前氏の祖となる人物だ。もとは蝦夷管領・安東氏の家臣で、1454(享徳3)年に安東政季(まさすえ)とともに渡島(おしま)半島に渡ったとされる。出自は諸説あり、江戸時代初期に編纂(へんさん)された松前藩の史書『新羅之記録(しんらのきろく)』には若狭武田氏の一族と記されるが、下北半島の蠣崎湊(青森県むつ市)出身の豪族という説もある。

功績を認められた信広は、安東氏の<三守護体制>における上之国守護・蠣崎季繁(すえしげ)の養女と結婚。季繁の養女は安東政季の娘とされ、つまり格上の安東・蠣崎両氏と婚姻関係を結ぶ立身出世を果たした。やがて季繁が没すると家督を継いで上之国守護となり、蝦夷島の支配者としての第一歩を踏み出したのだった。

信広が没してからもアイヌとの戦いは断続的に続き、信広の子・蠣崎光広や光広の子・義広が、箱館周辺を拠点としたアイヌ勢とたびたび衝突。『新羅之記録』によれば、生き残った和人は松前と上之国・天の川に集住したという。

アイヌとの対立の一方で、勢力を増した蠣崎氏は〈三守護体制〉を変化させていく。安東政季が制定した三守護体制は、渡島半島を「上之国」「松前」「下之国」の三つに分け、それぞれに守護を置いて館主を統括する〈安東氏―守護―館主〉というものだった。このうち、上之国守護となったのが武田信広であり蠣崎光広だった。

1496(明応5)年、光広の策謀で松前守護の安東恒季(つねすえ)が失脚する。松前守護職を継いだ相原季胤(すえたね)と副守護の村上正儀は1513(永正10)年にアイヌに殺害されるのだが、これも光広の陰謀だった可能性が高い。

1514(永正11)年になると、光広・義広父子は館主不在となった松前の大館(北海道松前町)に拠点を移し、商船からの徴収金を上納することなどを条件に、安東氏から支配の独占権を取り付けた。これにより〈安東氏ー総守護・蠣崎氏ー守護ー館主〉のような支配体制を実現したのだった。日本海交易ルートに加え、本州と蝦夷島を結ぶ太平洋交易ルートも掌握したのは大きな利点だったろう。

このころの蠣崎氏には残忍さも感じるが、これぞ蝦夷島における戦国時代といえるのかもしれない。巧みな駆け引きで実権を奪い取った蠣崎氏は、基盤づくりに成功し江戸時代まで存続していくことになる。