宮本亞門さんと考える遺贈の価値 人生を彩るのは等身大の「誰かのために」という思い 9月13日~20日は遺贈寄付ウィーク2024

AI要約

宮本亞門さんは、幼少期からエンターテインメントに親しんで育ち、演出家として活動している。自室でレコードを聴いた経験が演出への関心を高めるきっかけとなり、大学では演劇を専攻。演出家デビュー前は出演者としての経験もあり、恩師や母からのサポートが彼の道を支えた。

宮本亞門さんは100作以上の公演を手がける一方、社会課題にも積極的に関わっている。演出家の視点から物事を客観的に見ることが好きで、エンターテインメントを通じて人間や社会の在り方を考えるスタンスを持つ。

プロジェクトを選ぶ基準は、社会の中で動いている声や課題に心が動くかどうか、そして物事が花開くような影響を与えたいという想いから進められている。

宮本亞門さんと考える遺贈の価値 人生を彩るのは等身大の「誰かのために」という思い 9月13日~20日は遺贈寄付ウィーク2024

 演出家として国内外で活躍し、舞台の世界をこえてテレビCMの「違いがわかる男」としても一世を風靡した宮本亞門さん。自身の気持ちや物事の本質をじっくりと見つめ、社会の中に飛び込んで知り得た声や課題に対しても労を惜しまず活動しています。遺贈寄付をはじめ、今も多様なプロジェクトにアンテナを張り続ける理由とは。エンターテインメントを通じて人々をひきつけて巻き込む円熟の偉才に尋ねると、驚くほど自然なマインドで世界と向き合っていました。

――幼い頃からエンターテインメントは身近にあったのでしょうか。

 母に連れられて、歌舞伎やレビューといった舞台をたくさん見ていましたね。そして10代後半で1年ほど引きこもっている間に、自室でたくさんレコードを聴きました。その美しさを視覚化してみたいと思うようになって、演出に興味を持ったんです。進学した大学では演劇を専攻しました。

――演出家デビュー以前は出演者として活動されていました。紆余曲折の道を支えてくれた存在は、どなたでしょう。

 まずは大学の恩師です。演劇を学ぶうちに自分の道が狭まっていく気がして、通い続けることに迷ってしまって。内緒で受けたダンサーオーディションに合格したタイミングで両親と大学へ出向き、「ここを出て、荒波に揉まれてみなさい」と背中を押してもらいました。

 もう一人は、歌劇団で活動していたこともある母。僕が21歳の頃、2ヵ月にわたって出演する舞台が初日を迎える朝に突然亡くなりました。頭は混乱しているのに、やればやるほど舞台にエネルギーを込めていける不思議な感覚がありましたね。重いバトンを受け取ったような気持ちで、千秋楽後に日を空けず渡米。初めてのアメリカでブロードウェイ舞台を観劇し、そこから日本でバイトをしては本場のレッスンを受講しにいく日々が始まりました。演出家としての初公演はその数年後、29歳です。

――激賞された初演出公演から100作以上を手がけ、現在は社会課題にも精力的に取り組まれています。伝統芸能の継承や犬猫の殺処分対策、若手の人材発掘・育成など内容も幅広いですね。

 演出家の目線として、客観的に物事を見るのが好きなんです。チャプリンは「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言っていますよね。日本にも世阿弥の「離見の見」という考え方がある。エンターテインメントをこえて人類史に思いをはせれば、人と社会は今も進化の過程にあります。価値観の違いや差別もまだ残っているけれど、演劇はそれを「仕方ないね」で終わらせません。悪役の背景に目を凝らしますし、人間が人間を探っていくんですよ。その延長で、僕は社会問題や人間の在りかたをエンターテインメントと分けずに考えたいんです。

――プロジェクトを引き受けたり呼びかけたりする基準はどんなものですか。

 規模を問わず、社会の中に飛び込んで聞いた話に心が動くかどうかです。仕事柄、携わった物事がパッと花開くようなスイッチを押してみたいんですね。例えば、沖縄の自然保護を目的とするコンサート。ただ「環境破壊はよくない!」と叫んでも、誰も動きません。あの催しは歌手や民謡奏者と客席が一体になって、自然のすばらしさや「自然がそばにあったからこそ、歌や心が共有されてきた」と再認識する場になりました。自分の中でふくらんだ思いを「皆さんはどう感じますか?」と投げかけたいし、一緒に考えたいというのが僕のスタンスです。