大女優と“夢の競演”も…携帯電話で話す乗客にはしばしば驚かされる

AI要約

お客が携帯電話で喧嘩していると思い込んで怯えるタクシードライバーのエピソード。

ある日、大女優となるお客と楽しい麻雀の会話を楽しむタクシードライバーの心温まる出来事。

携帯電話の会話から得た新たな一面を持つお客との出会いに喜ぶタクシードライバー。

大女優と“夢の競演”も…携帯電話で話す乗客にはしばしば驚かされる

【タクシードライバー哀愁の日々】#27

 5年ほど前のことだ。

「おい、聞いてんのか!」

 突然のお客の怒声に驚き「は、はい、なんでしょうか」と返した。すると「運転手さん、ごめんね。電話してるから」と携帯電話を耳元から離してお客が丁重にわびてくる。怒りの矛先は電話の向こうの人物だ。

 乗せたときから「もしかして、しかるべき筋の人か?」と感じていただけにホッとひと安心だ。だが、怒声は続く。「だからな、罪状認否で……」という言葉が聞こえてきた段階から、話の内容は頭に入ってこなくなった。心臓はバクバク。粗相はしてはならない、一刻も早く目的地に到着したいと切に願った。自分なのか、親分なのか、それとも子分なのかはわからないし、刑事事件か民事事件か定かではないが、要は裁判の話をしているのだ。実際のところ、そのお客は私に対しては極めて紳士的に振る舞ってくれたが、降ろしてから冷や汗が出た。

 誰もが携帯電話を持つようになってから、お客の携帯電話での言葉を一瞬自分に向けられたものと勘違いしてしまうケースが増えた。「運転手さん、ちょっと電話します」とひと言断ってから電話をかけるお客もいるが、そうではない電話にはしばしば驚かされる。

 なかには「大丈夫、国税は5年で時効だから」とか「追い込みをかけろ」「ちょっと脅かしてやれ」といった善良な市民である私とは無縁の物騒な言葉が聞こえてくることもあった。そうなると、“触らぬ神に祟りなし”で、話しかけられないように自分の“気配”をできるだけ消した。おそらく私の表情は“のっぺらぼう”のようになっていたと思う。

 ただ、その一方でお客の携帯電話で楽しい思いをしたこともある。

 無線配車で御徒町に向かい女性を乗せた。ちょっと一般人ではないなと感じたが、すぐにその人が誰であるかはわかった。1960年代から映画で活躍した大女優のAさん(ご本人のイニシャルとは一応無関係)だった。当時、超人気男優だったBさん、Cさんの相手役として多くの作品でヒロイン役を演じた女優さんだ。映画全盛の時代、私も彼女の出演作品を何本も見ていた。私にとってはまさに憧れのスターである。現在も現役で活躍している。

 ドアを閉めると「運転手さん、上野に戻って高速に乗って天現寺まで」とのご用命。私が多少戻ることになることを伝えると「昭和通りは混むから」とやさしくひと言。

■「真ん中ばかり集める」の真相は

 彼女はクルマに乗り込むとすぐに携帯電話を取り出し、誰かと会話を始めた。私の耳を気にかける様子もない。

 愉快そうに「○○さんったら、真ん中ばっかり集めるんだよね」と話している。はじめは「?」の私だったが、ハタと彼女が麻雀帰りであることに気づいた。

 麻雀を知っている読者ならご理解いただけるだろうが、彼女の言う「真ん中ばかり」とは麻雀の役作りで、一九字牌を除いた二から八までの数牌だけで手牌を完成させるタンヤオという役のことなのだ。

 乗車中、ほとんど麻雀談議に花を咲かせていたが、偉ぶる様子はまったくなく、気さくな会話を楽しんでいた。私は聞き覚えのある彼女のすてきな声に感動し、そして背後に並々ならぬオーラを感じながら運転を続けていた。

 ドライバーとして、お客の会話に耳をそばだてているのは決して褒められる行為ではないが、聞こえてくるものはどうしようもない。道中、会話を交わすことはなかったが、降りるとき「どうもありがとう」とやさしい言葉を頂戴した。私にとっては「ドライバーとお客」の夢の競演だった。

 おそらく、降ろした後、ハンドルを握る私はお地蔵さまのような穏やかな顔つきをしていたにちがいない。

(内田正治/タクシードライバー)