【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉③ 】波に乗るだけでなく、波を作る人に

AI要約

照子さんは3歳で両親が離婚し、5人の父母に育てられる中で人の心を感じすぎる少女に成長していく。

お父さまが体を悪くし、入退院を繰り返す中、兄との思い出がある一方で、煮物を途中で食べてしまう悪戯も。

お父さまが他界し、継母の兄夫婦の養女になる話が進み、27回も引っ越しを経験する照子さんは変化を楽しむ素養があった。

【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉③ 】波に乗るだけでなく、波を作る人に

89歳にして美容研究家であり、ふたつの会社の経営者として現役で活躍する小林照子さんの人生を巡る「言葉」の連載です。

3歳で両親が離婚し、兄と照子さんは父のもとで、妹は母に引き取られる。その後、しばらくして父が他界。それを機に照子さんは継母の兄夫婦の養女になる。転々と環境が変わり、合計5人の父母に育てられるうちに、照子さんは人の心を感じすぎる少女に成長していく。

「私が3歳のときに両親が離婚し、まもなく後妻となる春治(はるじ)がやってきました。私は最初は母に引き取られましたが、ふたつ上の兄を慕っていたため1年後に父のもとに戻りました。

実家は祖父母が建てた日本家屋で、武蔵野の面影が残る練馬区小竹町。南側の庭には太陽光が降り注ぎ、柿や栗、ぐみなどの実がなる木や、白い大きな花をつける木蓮などがありました。ここが私と兄の遊び場でした。

兄はよく学校でガキ大将に泣かされていました。そんなときは私が『お兄ちゃんを泣かしたのは誰?』とかばいに入ったものです。

私は体が大きくいつも元気だったので、年下にもかかわらず、兄を守らなければと思っていました。泣き虫の兄と違って、とにかく強くて泣かない子だったので、学校では『小川の妹』として恐れられていました」

お父さまは再婚してまもなく体を悪くし、入退院を繰り返すように。そんなときに兄との思い出があると照子さん。

「その頃よく、祖母や継母が作った煮物などのおかずを病院にいる父に届けることがありました。ある日、兄と二人でその任務を遂行すべく病院に向かったのですが、当時はおやつなども十分にない時代です。あろうことか、その煮物を途中で二人で食べてしまったのです。

気が弱く正直者の兄は噓がつけず、何かあるとすぐに顔に出るタイプ。この二人の悪事も隠しきれずにすぐ白状してしまったのですが、私はしらを切り通しました(笑)。

最終的にはすべてバレて、しこたま怒られたのですが、生真面目な兄と要領のいい私の性格の違いがよくわかるエピソードです」

そして、照子さんが5歳、小学1年生になる寸前の2月にお父さまが他界。

「父が元気な頃は抱っこしてくれたり、講談を一緒に聴きに行ったり、入院中も体調がいいときには私の日常の話などを優しく聞いてくれました。

めったに泣かない子どもでしたが、父の葬儀のときは二度大泣きしたことを覚えています。一度目は父の遺体の鼻に綿が詰めてある様子がとても怖かったとき。そして二度目はデコラティブな屋根がついた霊柩車を見たときです。車が人の顔に見えたのが怖かったのです。今でもトラックのような車はフロントが顔に見えて苦手です(笑)。

泣きじゃくる私を見て、大人たちは『照子ちゃんは本当にお父さんを慕っていたのね』と解釈したようですが、実は初めて見る、そのふたつの物が怖かっただけなのです。ちょっと薄情にも思えますが、そんな子どもでした(笑)。

父が亡くなる前から大人たちの間では、私を継母・春治の兄夫婦である花形家の養女にする話が進んでいました。昭和のこの時代、子どものいない親戚の養子になることは珍しくなかったのです。

子どものいない伯父夫婦は私をかわいがってくれていましたし、私も二人が遊びに来ると、帰るときには『帰らないで~』とぐずるほどなついていたので、父が他界すると話はすんなりと進みました。

目まぐるしく変わる環境のなか、父を亡くしたことや慕っていた兄と別れるのは悲しかったのですが、大人の事情を察知して意外と冷静に、次の違う環境に行くのが楽しみでした。

この後、戦況が悪化して一家は山形に疎開するなど、私は生涯で27回引っ越しをしています。私はどうもこうした変化をワクワクと楽しむ素養があるようです」