悠仁さまの“難関名門高”路線は「お茶の水女子大付属幼稚園」を選んだ時から始まった【秋篠宮家の学校選び】

AI要約

悠仁さまの学校選びの背景には、幼稚園時代から偏差値の高い学校を目指す意識があった。

秋篠宮家は3年保育を希望し、お茶の水女子大付属幼稚園を選ぶこととなった。

姉妹たちとは異なり、悠仁さまの場合は幼稚園選びに制約があり、お茶の水女子大付属幼稚園に入園することになった。

悠仁さまの“難関名門高”路線は「お茶の水女子大付属幼稚園」を選んだ時から始まった【秋篠宮家の学校選び】

【秋篠宮家の学校選び】#19

「悠仁さまが偏差値の高い学校を目指すようになった分岐点は幼稚園までさかのぼる」と話すのは宮内庁OB。3年保育を望む秋篠宮家は2年保育しかない学習院を避け、お茶の水女子大付属幼稚園を選んだ。「超難関の幼稚園に入園して紀子さまは息子が東大に入るのも夢ではないと意識しだした」と振り返る。ただし、3年保育に固執したこと自体は非難されるものではないと強調する。

 戦災のために焼失した学習院幼稚園が復活したのは1963年。翌年、浩宮さま(徳仁天皇)が入園し、6年後、秋篠宮さまも続いたが、大都市圏では次第に3年保育が主流になっていく。皇室も例外ではなかった。

 浩宮さま以降の世代で最初に3年保育の幼稚園に通いだしたのは三笠宮寬仁さまの長女・彬子さま。セレブの子弟が集まり、慶応幼稚舎へのお受験でも高い実績を上げていた松濤幼稚園(東京・渋谷区)に入園。1年後に学習院幼稚園に転園した。妹の瑤子さまも同じコースをたどった。高円宮の3人(承子さま、典子さん、絢子さん)はいずれも3年間松濤幼稚園に通い、小学校から学習院に進んだ。

■姉の眞子さんと佳子さまは学習院幼稚園に入園

 一方、秋篠宮家の眞子さんと佳子さまは松濤幼稚園には行かず、3歳の時から別の幼児教育施設に通ったのち、学習院幼稚園に入った。秋篠宮さま以降の皇族で実質3年保育を受けなかったのは愛子さまだけだった。

「秋篠宮家が松濤幼稚園を避けたのは全国で最も高い学費(その後、青山学院幼稚園が上回る)が知られていたから。世間の目にゼイタクと映るのを秋篠宮さまは気にされていた」(宮内庁OB)

 いずれにしても、悠仁さまが幼稚園を選ぶ段になると、姉2人の時よりも選択肢が限られていた。松濤幼稚園の創設者で、ずっと園長を務めていた林貞子氏が2006年に亡くなり、悠仁さまの3年保育が始まる10年春には閉園することを決めていたからだ。姉と同じ幼児教育施設に行くことも考えられたが、さらにいい条件が舞い込んでくる。お茶の水女子大が大学に必要と判断した女性研究員の子を付属校に受け入れるという制度を急きょ導入したのだ。この制度を使い、悠仁さまは付属幼稚園に入園することになる。その前年から紀子さまは同大の研究員になっていた。「制度を設けるために宮内庁の一部の人間が動いた」と皇室記者は話す。「秋篠宮さまと紀子さまの間で微妙なズレができていた」と指摘するのは前出の宮内庁OBだ。

「悠仁さまのために最良のことをやりたいという点ではおふたりは一致しているものの、秋篠宮さまは特別扱いと見られるのをひどく嫌っていた」

 悠仁さま誕生から約3カ月後の記者会見で秋篠宮さまは「基本的には長女、次女と同じように接するつもり」と語った。眞子さんや佳子さまについては、その自主性に任せてきた秋篠宮家だが、大学選びのタイムリミットを目前にする悠仁さまについてはどうか。「お膳立てが過ぎて窮屈になっているのでは」(同)と心配する声も出ている。

(田中幾太郎/ジャーナリスト)