貧困家庭出身、一人暮らしで“推し活”→世界の見え方が変わった 「死ねない理由」ヒオカさんインタビュー

AI要約

小学生の頃から生きることにポジティブになれない経験を持つフリーライターが、貧困家庭出身の苦悩や社会の攻撃性、文化的豊かさの重要性について語る。

経済的基盤と文化的経験の重要性について掘り下げ、貧困層が文化的な生活を楽しむ権利の重要性を訴える。

推し活を含む文化的な喜びが、過去の苦難を乗り越える原動力となっていることを綴り、社会的特権としての文化的体験に感謝を述べる。

貧困家庭出身、一人暮らしで“推し活”→世界の見え方が変わった 「死ねない理由」ヒオカさんインタビュー

「貧困家庭出身」のバックグラウンドは、ある程度の経済的安定を手にした後も付いてまわる。奨学金を受けて大学へ進学し、20代でフリーライターになったノンフィクションライターのヒオカさんは著書『死ねない理由』(中央公論新社)で、「貧しい人は文化的な生活をしてはいけない」という社会の攻撃性についても綴っています。一人暮らしで可能になった“推し活”の意義、執筆の裏側で感じた特権によって加速する努力至上主義についても迫りました。

───「生きる理由」という言葉はよく見聞きしますが、本書のタイトルはなぜ『死ねない理由』なのでしょうか?

 最初の本は『死にそうだけど生きてます』でした。タイトルに「生きてます」とありますけど、私は小さい頃から生きることにポジティブになれないんです。小学生の高学年くらいからずっとその気持ちがありました。家に帰れば父が母に暴力を振るっていて、学校に行っても先生に嫌われたりいじめられたり。常に頭のどこかで「早く死にたい」と思っていたんです。

 続編ともいえる本作では、そういったバックグラウンドを抱えた貧困家庭出身のフリーライターとして、女性として、また虚弱体質と共に生きる当事者としての経験談や、その視点から見た社会について書きました。

 また「この人がいる世界ならもっと見てみたい」と思わせてくれた“推し”との出会いや、少しずつ経済的に安定してきたことで実現できた“推し活”という文化的な喜びについても、ありったけの愛を込めて書いています。

「生きることは素晴らしい!」みたいなキラキラした言葉には共感できないのですが、今までに出会った人や大好きな“推し”を想ったときに、「まだ死ねないな」と。「生きたい」とは少し違う気持ちで、死に吸い寄せられていく私を「ちょっと待った」と引き留めてくれている人たちがそこにいる感じですね。

─── 本書では、主に「生きていくための経済的基盤」と「生きていくための文化的経験」の二つに光が当てられています。憲法にも「国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とありますが、まだまだ世間では、生きていくためには「最低限の経済的基盤が整えば良い」と考えている人が多く「文化的経験」には理解が進んでいないように思います。

 最低限の経済的基盤に関しては多少のコンセンサス(合意)があると思いますが、経済的格差に伴う、経験の格差や文化資本の乏しさに大きな課題を感じます。

 例えば、私が中高生の頃に部活に入れなかったことに対して、SNSでは「親が稼いでないんだから仕方ないでしょ」と言われることも少なくないですし、現在のフリーライターという働き方に対しても「贅沢だ」「早く会社員になれよ」「自分で貧困を選んでる」などの鋭利な言葉が飛んでくることも珍しくありません。

 貧困によって制限された選択肢の中でなんとか生活している人には「頑張っているね」と同情するのに、そこを出て文化的な経験を求めはじめた途端に「身の程知らず」と叩かれてしまう。

 私は取材のときは大好きな服を纏って“武装”するので、今日の私の姿を見たら「カラコン(カラーコンタクト)や髪をブリーチするお金があるんですね」と叩く人もいるかもしれませんね。

 でも、やっぱり人間が生きるためには身体的な安全と文化的な豊かさが必要じゃないですか。屍の様に生き永らえることはできても、好きなものに手を伸ばせなかったり、自己表現が許されなかったりするままでは、意志を持って生きられないと思うんです。

─── 文化的な豊かさで言うと、“推し活”もヒオカさんが「死ねない理由」のひとつだと書かれていましたね。

 そうなんです! 少なからず文化的な体験を求められるようになったことは、人によっては当たり前のことかもしれませんが、私の場合それができない時期も長かったので、今の私が持つ社会的特権だとも自覚しています。ライブに行くなんて過去の私は想像できなかったですし、チケット抽選に参加してるなんて自分でもびっくりです。

 極端な例かもしれませんが、過去に激安シェアハウスに住んでいた頃は、隣の部屋の音が漏れる環境だったので、少しでも物音を立てれば壁を大きな音で何度も叩かれていて......。幼少期の家庭内暴力のトラウマも重なり、推し活どころではなくて、毎日怯えて暮らしていました。

 今では、なんとか一人暮らしをして、部屋で中川家のラジオを聞いて大笑いしたり、ちゃんみな(ラッパー)のライブ映像に熱狂したり、羽生結弦くんのパフォーマンス映像に悶えたりできるようになったわけです。今でも決して余裕があるわけではありませんが、以前のような極限状態を抜け出したからできることだと思います。 

 羽生くんが表紙を飾った雑誌を購入して部屋に飾れる喜びたるや......! もちろん極限の状態で音楽に救われることもありますけど、それは味わう、楽しむとは少し違うものかなと思います。