ベルカントの華「狂乱の場」だけを集めた前代未聞のリサイタルに挑む佐藤美枝子

AI要約

ソプラノの佐藤美枝子が、前代未聞のリサイタル「狂乱 KYO-RAN 響蘭」を開催する。プログラムは4つのベルカント・オペラの〈狂乱の場〉で構成され、彼女の唯一無二のテクニックが光る。

彼女は登場人物として各々を歌い分け、演劇的な表現とともに音の形やテクニックで感情を表現する。声のスタミナには自信があり、若き日から声質と声域を維持している珍しい歌手である。

演出は岩田達宗が担当。彼女と長い共演歴を持つ彼が、〈狂乱の場〉としての説得力を最大限に引き出す。10月12日、紀尾井ホールでの一夜限りのステージに注目が集まる。

ベルカントの華「狂乱の場」だけを集めた前代未聞のリサイタルに挑む佐藤美枝子

19世紀のベルカント・オペラの〈狂乱の場〉といえば、精神を錯乱したヒロインが、高音域の超絶技巧を駆使して歌う、オペラの華であり、大きな聴かせどころだ。この秋、ソプラノの佐藤美枝子が、4つの〈狂乱の場〉だけで構成するという前代未聞のリサイタル「狂乱 KYO-RAN 響蘭」を開く。

「以前からやりたいと思ってあたためていた企画です。1998年のチャイコフスキー国際コンクールでも《ルチア》の〈狂乱の場〉を歌って第1位をいただきましたし、ずっとベルカント唱法を勉強してきた人間としては、ベルカントの真髄が〈狂乱の場〉だと思っています。オペラ1本に相当するぐらいの内容が凝縮された場面が〈狂乱の場〉です」

プログラムはベッリーニの《清教徒》と《海賊》、ドニゼッティの《ランメルモールのルチア》と《アンナ・ボレーナ》の、4つの〈狂乱〉。いずれも主役が延々と一人で聴かせる各オペラの山場だ。まるでメイン・ディッシュ4品のコース料理のようなもので、声のスタミナは大丈夫なのかと考えてしまうが、それは大きな問題ではないのだそう。

「実際のオペラ上演でも、主役であれば、出ずっぱりで1時間半以上ずっと歌っているなんていうのは当たり前なんですね。私は体力もないほうではないので、そういう意味では全然心配はしていません」

〈狂乱〉だけに、もちろん演劇的な激しい表現も必要だけれど、ベルカント・オペラの場合、音の形そのものが感情を表現する大きな役割を担っている。歌手に要求されるのは、まずはそれを歌い切るテクニックなのだ。そして佐藤はベルカント唱法の第一人者。類まれなテクニックの持ち主だからこそ、スタミナの心配は無用ということなのだろう。

「錯乱状態になってぎゃーっと叫んでいるのではなく、〈狂乱の場〉にはコロラトゥーラ的なテクニックがいっぱい詰まっています。それがただのテクニックではなく、登場人物の精神状態、心情や感情が音の形、音楽になっているものだと捉えていただきたいですね」

歌うのは4つの役。それぞれの物語の背景も、〈狂乱〉の意味も異なる。それをどう歌い分けるのだろう。

「オペラでもリサイタルでも、私は基本的に、佐藤美枝子が歌うのではなく、それぞれの登場人物として歌いたいんですね。それが自然に出るまで、歌い込んで作っていくという感覚です。ブレスをして、河原忠之さんのピアノの前奏が始まる時にはもう、その登場人物でありたい。あらねばならぬ、と思っています」

今回はモノオペラ的なステージ構成での上演。岩田達宗が演出を手がける。

「私がいちばん共演回数が多い演出家が岩田さん。私の中で演出家といったら岩田達宗なんです。研ぎ澄まされた演出で、私のいちばんいいところを出していただけると信頼しています。今回も私の声という人体楽器をどのように〈狂乱の場〉として表現するかというところに焦点を当てて作ってくださると思います。

1995年に私が日本で初めてオペラに出演させていただいた時の演出助手が岩田さんで、毎日朝から晩まで、手の動かし方から、足の運びから、基礎からすべて教えていただきました。私は彼の弟子みたいなものなのです。

彼はなんでもできるので、このリサイタルのチラシのデザインも、『狂乱 KYO-RAN 響蘭』というタイトルも岩田さんのものです。チラシの中央にデザインされているのは十字架。岩田さんによれば、十字架は、登場人物たちを〈狂乱〉に追い込む張本人です。愛する男性、男の社会。その社会を作ったのが十字架。それが彼女たちの〈狂乱〉の原因であり背景である。と同時に、彼女たちは十字架に救われ、それを信じて生きています。

いっぽう、タイトルの『響蘭』の“響”が象徴するのはベルカント。声楽家にとって最も大切なのは“響き”である。そして私が今、声楽家として爛熟の時であると。そんなわけで、最初は『響爛』だったのを、蘭の花の開花のイメージも重ねて『響蘭』と置き換えてくださいました」

一般的に、繊細なレッジェーロのソプラノの声は、年齢とともに変化して重く、低くなっていく。彼女のように若い時から声質も声域も変わらないままキープし続けているのは奇跡と言っていい。

「声域は低いほうに広がってきましたが、上は維持しています。高音が出なくなったからレパートリーを移行するというのは、私の中ではダメなんです(笑)。そうなった時には、私は歌をやめると思います。それは、日本音楽コンクールとチャイコフスキー国際コンクールという、国内外の大きなコンクールで1位をいただいて背負った十字架のようなものです。コンクールの1位をいただいた者として、恥ずかしくない歌い手でなければならない。歌をやめるときまで示し続けなければならない義務だと思っています」

ごまかしのない、真の“爛熟”。「声の響きを助けてくれる、歌手にとっては別格のホール」(佐藤)と愛する紀尾井ホールで、4つの〈狂乱〉を一気に体験できる。

取材・文:宮本明

狂乱 KYO-RAN 響蘭

佐藤美枝子 ソプラノ・リサイタル

10月12日(土) 15:00開演

紀尾井ホール