引退から29年…元乙女塾メンバーが新曲発表 ファンに「ありがとう」を言えずに解散させられた “アイドル冬の時代”

AI要約

Qlairは1991年に誕生したアイドルグループで、CoCoやribbonに続く第3のグループだったが、ブレイクできず3年で解散した。

グループはギルバート・オサリバンの代表曲にちなんでQlair(クレア)と名付けられ、ハモリを特徴とするアーティスト路線で活動していた。

メンバーは苦しい時代を経て解散を迎え、その後、今井佐知子はタレントとして活動したが、94年にタレント活動を終え引退した。

引退から29年…元乙女塾メンバーが新曲発表 ファンに「ありがとう」を言えずに解散させられた “アイドル冬の時代”

 1991年、フジテレビ主催「乙女塾」からCoCo、ribbonに続く第3のアイドルグループ・Qlair(クレア)が誕生した。大手レコード会社から期待されてのデビューだったが、当時は「アイドル冬の時代」。ブレイクできないまま、ひっそりと3年で解散した。元メンバーの今井佐知子は翌年に芸能界を引退。1児の母になった。以降、表舞台に出ることはほとんどなかったが、乙女塾の仲間たちとの再会をきっかけにステージに立つことを決意。29年の時を経て、今年9月1日にソロCDをリリースするに至った。ENCOUNTは50歳になった今井の半生を振り返りながら、本人に今の思いを聞いた。(取材・文=福嶋剛)

 そのグループは、ギルバート・オサリバンの代表曲『Clair』の頭文字をQにした「Qlair」(クレア)と名付けられた。乙女塾4期生の今井、5期生の井ノ部裕子、吉田亜紀で構成。91年7月7日、シングル『瞳いっぱいの夏』でデビューした。

「始めはCoCoちゃんやribbonちゃんのようなキラキラしたアイドルをイメージしていたのですが、『3声でハモるアーティスト路線のグループ』ということになりました。私たちはちょっと戸惑いながらも、『とにかく頑張ろう』と声を掛け合って必死にハモリを練習しました。毎回、素敵な曲を提供していただき、Qlairは楽曲に恵まれたグループでした。今でも大好きな曲ばかりです」

 しかし、時代はバンドブームへと移り、人気だった歌番組も続々と打ち切り。アイドルにとっては、厳しい時代がやってきた。

「大好きだった歌番組が次々と終わり、毎週末はイベントが多くなりました。オリコンチャートも最初はワクワクしながら見ていたんですが、デビュー曲は67位。結局、最後まで10位以内に入ることができず、毎回順位を見るたびに『私たちは上位にいけないのかな』ともどかしさを感じていました」

 苦しい日々。成長過程で3人にも迷いが生じていた。

「1年後にリリースした5枚目のシングル『秋の貝殻』あたりから、アイドルなのか、ポップユニットなのか、私たちも迷っていました。でも、3人のまとまりはどんどん良くなり、8枚目のシングルの音源も上がってきて、『もっと、頑張ろう!』とレコーディングに向けて張り切っていました」

 ところが、彼女たちは無情に「解散」を宣告された。

「レコーディングの前に、スタッフさんに『ミーティングがあるから』と呼ばれました。部屋に入ると、レコード会社の偉い方や事務所の社長さんが座っていて、ただならぬ空気を感じました。そこで、『Qlairの活動が休止になります』と言われました。私たちは『えっ』となって、一瞬言葉を失い、『次のシングルが最後になるんですか?』と聞くと、『出ません。白紙になりました』と…。ごめんなさい。この話をすると今でも涙が出てきちゃって」

 今井は涙を流しながら、話を続けた。

「『せめて解散コンサートだけはやりたい』と訴えたのですが、『できません』と言われました。8枚目のシングルもすごく素敵な曲だったので悔しいし、何より『もう3人で歌えない』と思うと本当に悲しくて…」

 それから活動休止までの半年間が、人生で一番つらい時期だったという。

「『活動休止を発表するまでは、ファンに口外しちゃいけない』と言われたので、気づかれないように笑顔で頑張っていました。でも、スキー場で行われた最後のラジオ公開放送でMCの方やスタッフさんが、ファンに気づかれないように、『お疲れ様』って労いのメッセージを送ってくれたんです。それを見て3人で本番中に号泣してしまいました。最後までファンのみなさんに『ありがとう』が言えなくて、その後もずっと心残りでした」

 インターネットもなく、メディアを通さないと情報発信ができない時代。現実に全国のファンに報告の機会を与えられないまま、Qlairは94年春に活動を終えた。

「私はその後、1年間だけタレントとして活動しました。『どうぶつ奇想天外!』(TBS系)では、レポーターを担当させていただき、WOWOWではサッカー情報番組のアシスタントMCを務めました。またケラリーノ・サンドロヴィッチさんに誘っていただき、CoCoの宮前真樹ちゃんとribbonの松野有里巳ちゃんと私の3人で、ナイロン100℃の舞台『1979』に出演させていただきました。でも、歌もお芝居も中途半端でタレントとしての限界を感じ、95年5月21日、原宿のRUIDOというライブハウスで最後のライブをやって引退しました」