「メンチンの馬場」悼む 居酒屋でマージャン談義 卓を離れた素顔思い出す

AI要約

馬場裕一(ばば・ひろかず)さんが亡くなりました。麻雀プロとして活躍し、マージャン漫画の原作や執筆、映画でのマージャン指導などで知られていました。

20代の頃から馬場さんの存在を知り、彼との縁で記事の執筆を始めるきっかけを作った記者の思い出や、馬場さんの人柄、麻雀への探究心などに触れられています。

馬場さんはマージャンだけでなく、酒も楽しむ気さくな人柄で、さりげない気遣いも見せていました。彼の存在を惜しむ声が寄せられています。

「メンチンの馬場」悼む 居酒屋でマージャン談義 卓を離れた素顔思い出す

 馬場裕一(ばば・ひろかず)さんが亡くなった。65歳。数年前からがん闘病中だったという。

 名前を聞いてもピンと来ない方のために説明すると、職業は「麻雀プロ」。プロといっても、将棋の藤井聡太さんのように対戦相手を次々と撃破して、タイトルを獲得したスターとは、やや異なる。マージャン漫画の原作や、マージャン戦術書の執筆、さらに映画などでマージャン場面が登場する際の提案・助言・指導など、マージャンにかかわるアイデアマンとして売れっ子だった。

 片山まさゆき氏のマージャン漫画「ぎゅわんぶらあ自己中心派」「スーパーヅガン」などの作品には、人気キャラ「ババプロ」として登場していた。

 記者は20代の頃からマージャン雑誌を読みあさり、馬場さんの存在を知った。学生時代からマージャンどっぷりの生活を送っていた彼とは、ほぼ同世代。自然とシンパシーを感じていた。

 ある日、日刊スポーツの上司から「マージャンの新しいコラムを始めたい。誰か、いい人はいないか?」と打診された。40年近く前のことだ。迷わず「面白い人がいます」と名前をあげたのが馬場さんだった。

 当時、他の新聞社でマージャンコラムを担当していたのは小島武夫氏、灘麻太郎氏、福地泡介氏ら。マージャンの世界で長らく活躍していたベテランたちだった。彼らに比べれば、馬場さんは20歳ほど若い。連絡を入れると、とんとん拍子で日刊スポーツでの連載が決まった。

 馬場さんがファクスで送ってきた第1週の原稿は、当時出始めていた「全自動麻雀卓攻略法」について。斬新なアイデアだった。手積みの台からマージャンそのものが変わりつつあった時代。それまでのマージャンコラムといえば13枚の手牌と、ツモってきた1枚を図で示し「さて、何を切るのが正解?」というクイズ形式が主流だった。好評を集め、馬場さんの執筆は何年も続いた。

 そんな縁もあって、馬場さんは大阪に来られるたび、日刊スポーツに連絡をくれて、何度もお会いした。我々のような素人相手に気さくにマージャンを打ってくれた。マージャンに対しては探究心旺盛で、我々の親しんでいたローカルルールも「おもしろいですね」といって卓を囲んでいた。左利きなので、ツモは左手。かつては遅刻魔として有名だったが、マージャンは「ツモる、捨てる」がリズミカルで、実にかっこよかった。

 あるとき、抜け番だった馬場さんが私の手配を後方から見ることがあった。雀頭のみが萬子(マンズ)、それ以外の11枚が筒子(ピンズ)で平和(ピンフ)のテンパイ。ドラは2枚あったと記憶している。一瞬メンチン(面前清一色)を考えたが、せっかちな私はリーチ。ややこしい待ちを考えるのが面倒でもあった。

 あとになって馬場さん、こっそり「あれは萬子を切っていくべきでしょう」。「メンチンの馬場」の異名を取る彼らしいコメントだった。

 マージャンの後は、一緒に酒も飲んだ。見た目どおり、ざっくばらんな人柄で、フレンドリー。高級とはいいがたい居酒屋で、遅くまでマージャン談義を楽しんだ。

 会社の手違いから、原稿料の振り込みが数カ月も滞ったことがあった。電話してきた馬場さんは「あの~原稿料ですけど…いつ入るんでしょうか?」と遠慮気味に打ち明けた。完全にこちらのミスです。あのときは、申し訳なかった。

 馬場さん、お世話になりました。一緒にマージャンをしたことは一生、忘れません。今ごろは空の上で、阿佐田哲也さんや小島武夫さんと卓を囲んでいるのかなあ。【三宅 敏】(ニッカンスポーツ・コム/コラム「ナニワのベテラン走る~ミナミへキタへ~」)