退職願を出した猛暑の日。そんなわけあるかいの連続だったADの仕事<河谷忍「おわらい稼業」第4回>

AI要約

河谷は制作会社に就職し、お笑い番組を作ることを目指していたが、現実は理想と異なり、退職を考えるようになる。

面接ではお笑いの番組に携わりたいと強く志向していたが、社長は全員がやりたい番組に就かせると約束していた。

社長からの予想外の言葉を受け、河谷は新たな展開に戸惑いを覚える。

退職願を出した猛暑の日。そんなわけあるかいの連続だったADの仕事<河谷忍「おわらい稼業」第4回>

構成作家・河谷忍による連載「おわらい稼業」。ダイヤモンド、ケビンス、真空ジェシカら若手芸人とともにライブシーンで奮闘する、令和のお笑い青春譚。

お笑い番組を作るために制作会社に就職した河谷。しかし、待っていたのは理想と違う現実だった。退職願を出すまでの半年間を振り返る。

「基本的には全員のやりたい番組に就かせてあげたいと思ってるから」

面接のときから聞き続けてきた言葉だ。目の前の男がしゃべるたびに周囲には珈琲の匂いが立ち込めた。カップになみなみに注がれた珈琲が湯気を立てているのではない。この男は珈琲を飲みすぎて鼻から吸った空気を口内や歯にまとわりついた珈琲臭のフィルターに通して排出する人間“逆”空気清浄機なのだ。普段は芳醇で至高なあの香りも、人の中から出た時点でただの異臭である。少しばかりうっとなるが、うっとなってませんよみたいな顔で話を聞く。

だいたいのADといえば自分が望んでいない番組に配属されて文句を垂れながら仕事をするイメージがあるが、私が就職したこの会社の社長は各々が望む番組に配属させられるだけの力があるようで、久しぶりに会う同級生数人と飲みに行ったときに「あの子呼んだら来てくれるんちゃうかな、電話してみる?」と、名前を聞いても何してるかわからんような知らんインフルエンサーの連絡先を持っていることだけがポリシーのしょうもないスタートアップ勤務の男のような口ぶりだった。今思えば「口ぶり」という言葉は口で屁をこいたみたい音だから不快である。

「ぼく、面接でも言ったかと思うんですけど、お笑いがやりたいんです、お笑いの番組を作りたいです、というかお笑い以外はやりたくないです」

私はテレビの現場で仕事をするということに対して、関西弁の女子小学生がいじめられたときに言う「うち、負けへんで」ぐらい鮮明なビジョンを持っていたのだ。何があってもお笑い以外のことはやりたくないし、やっても仕方がないと思っていた。なんなら東京に出てきたのもお笑いの仕事をやるためである。それ以外のことをするぐらいならすぐに実家に戻ってバイト生活をするほうが幸せだと思っていた。

「OK、さっきも言ったけど基本的には全員をやりたい番組に就かせてあげたいと思ってるから」

社長はそう言うと少し笑って見せた。黄色い歯の隙間からおそらく珈琲の匂いがする風がやってきたので、私は鼻の息を止めて「お願いします」と返事をした。実際の勤務が始まるまでの期間に、上司たちが新入社員たちをどの局のどの番組に配属するかを決定していく。今となってあの会社は社員と社長との距離が近くて風通しのいい職場だったなと感じる。距離が近くて風通しがいいぶん、こっちは社長の口から吹く珈琲の偏西風を浴びることにはなるのだが。数日後、社長から呼び出された私はそんなんじゃ済まないような衝撃のひと言を浴びせられることになる。