【王騎将軍・龐煖の史実】『キングダム』のモデルになった大将軍の活躍を、秦研究の第一人者が解説

AI要約

映画『キングダム大将軍の帰還』が公開され、盛り上がりを見せている。主人公・信を演じる山﨑賢人さんのほか、秦国の総大将・王騎将軍を演じる大沢たかおさん、趙国の総大将・龐煖を演じる吉川晃司さんの名演も見どころだ。

王齮は三代秦王に仕えた将軍で、昭王時代に活躍し、始皇三年に戦死した。若き秦王嬴政を支えた武将の一人である。

龐煖は合従軍を率いて秦の蕞を攻撃し失敗した趙の将軍で、戦国時代に活躍した龐氏の一員である。

【王騎将軍・龐煖の史実】『キングダム』のモデルになった大将軍の活躍を、秦研究の第一人者が解説

 映画『キングダム大将軍の帰還』が公開され、盛り上がりを見せている。主人公・信を演じる山﨑賢人さんのほか、秦国の総大将・王騎将軍を演じる大沢たかおさん、趙国の総大将・龐煖(ほうけん)を演じる吉川晃司さんの名演も見どころだ。

 彼らは史実においてどう活躍したのか?映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんによれば、王騎将軍は史実においても、「秦に尽くした武将であった」という。

 将軍たちを解説した新刊『始皇帝の戦争と将軍たち ――秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。

【『キングダム』の内容にかかわる史実に触れています。ネタバレにご注意ください】

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■王齮(おうき) │三代秦王に仕えた将軍

 王齕(おうこつ)とも書く。秦の昭王、荘襄王、秦王嬴政の三代(わずか三日間即位の孝文王を入れれば四代)に仕えた将軍である。始皇三(前二四四)年に亡くなったので、秦王嬴政を支えたのは三年にすぎない。将軍としての活躍はもっぱら昭王のときである。

『史記』の初出は昭王四七(前二六〇)年、左庶長(第一〇級の爵位)王齕として趙の廉頗(れんぱ)と戦ったことが見え、上将軍武安君白起(はくき)のもとで副将として長平の戦いで戦績を挙げた(『史記』白起列伝)。

『史記』秦本紀によれば、昭王四九(前二五八)年に王齕は将軍に任命され、翌年に鄭安平(ていあんぺい)と邯鄲を囲んだが、楚と魏が救援したので、軍を引いている。

 荘襄王三(前二四七)年に、上党を攻撃して占領郡の泰原郡を置いた同一記事を、秦本紀では王齕、六国年表では王齮と記している。王齕、王齮は同一人物と見られている。文字の旁(つくり)の乞と奇は漢音ではともにキであり、齕と齮は上古音では同音異字であったのだろう。

 王齮は始皇三年に戦死した。この時、蒙驁(もうごう)が韓、魏を攻撃しており、韓の一三城を獲得するほどの大きな戦役であり、王齮もこの戦いのなかで亡くなったのであろう。『史記』初出の昭王四七年から戦死した始皇三年まで一六年間、秦に尽くした武将であった。若き秦王嬴政を支えた武将が、蒙驁、王齮、麃公(ひょうこう)であった。嬴政はまだ一三から一五歳で、好戦的な昭王時代の経験を、将軍から少年王に伝えたのであろう。

■龐煖(ほうけん) │合従軍を率いた武将

 戦国時代において、龐(ほう)氏には魏の龐涓(ほうけん)と趙の龐煖(ほうけん)がいて、いずれも武将として名高い。

龐涓は秦でいえば孝公の時代、龐煖は秦王嬴政の若き時代の将軍で、時代は重なっていない。龐氏はそもそも周の文王の子の畢公高(ひっこうこう)の子孫で、龐の地に封ぜられた者に由来する。『史記』に見える龐氏はわずかこの二人だけであるので、血縁的な関係があるのかもしれない。

 趙の将軍の龐煖は、『史記』趙世家では、秦王嬴政の六(前二四一)年、趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて秦の蕞(さい)を攻撃するという重要な働きをした。蕞は秦の都の咸陽にも近く、そこまで侵略しながら失敗したという。一方『史記』楚世家によれば、このときの合従の長は楚の考烈王にあり、春申君黄歇(こうけつ)も派遣され、函谷関まで攻めたが秦の反撃の前に敗北したという。