倉田真由美、亡き夫・叶井俊太郎さんへの想い「亡くなる前日の食事はファミチキでした」

AI要約

伝説の映画プロデューサー、叶井俊太郎が末期がんで闘いながらも精力的に活動し続け、妻に看取られながら自宅で亡くなった様子を倉田真由美が振り返る。

叶井俊太郎の死後の生活や最期の様子、食べたファミチキの話などを通じて、倉田真由美が叶井俊太郎との14年以上に及ぶ結婚生活を愛おしむ様子を語る。

叶井俊太郎は豪放な生き様と独自の思想で、死に至るまでやりたいことを我慢しない姿勢を貫いた。倉田真由美はその姿勢から多くを学び、夫との思い出に涙する。

倉田真由美、亡き夫・叶井俊太郎さんへの想い「亡くなる前日の食事はファミチキでした」

■映画界の鬼才、叶井俊太郎の死

 伝説の映画プロデューサー、叶井俊太郎が2月16日に56歳で亡くなり、早くも3ヶ月が過ぎた。昨年10月、叶井はステージ4の末期の膵臓がんを患っていると公表したが、同時に標準治療を行わないと宣言し、それまで通りに仕事を続ける意思を示した。この発言が世間に大きな衝撃と驚きを与えたことは記憶に新しい。

『エンドロール! 末期がんになった叶井俊太郎と、文化人15人の“余命半年”論』

  10月30日には『エンドロール! 末期がんになった叶井俊太郎と、文化人15人の“余命半年”論』を出版。末期がん患者である叶井が、各界の第一人者にインタビューする異色の構成で話題となった。12月8日には、自身がプロデュースする映画『恐解釈 桃太郎』が公開されるなど、精力的に活動を展開していた。

  筆者は昨年10月、叶井にインタビューをしている。「人生、特に未練がない」と語り、末期癌患者であるにも関わらず、時折ギャグを飛ばしながら話す姿が印象的だった。特に、制作中の映画について語る叶井の目は少年のように輝き、末期がん患者にインタビューしているとは思えないほどだった。

  叶井は、その豪放な生き様でも常にメディアを騒がせる存在であった。女性経験は600人以上で離婚歴は3回、自己破産も経験している。にもかかわらず、常に周囲を惹きつける存在であったことは間違いないだろう。没後3ヶ月を経た今、叶井の妻であり、最期を看取った倉田真由美に心境を語っていただいた。

■倉田真由美は今、何を思うのか

生前の叶井俊太郎さん。 2023年10月撮影:山平敦史

――叶井俊太郎さんが亡くなり、3ヶ月が過ぎました。

倉田:2022年6月に末期の膵臓がんの宣告を受けてから、夫は一度も後悔を口にせず、「いつ死んでもいい」と最後まで言い通しました。余命半年、もって1年と診断されたのですが、いわゆるがんの標準治療を行わずに1年9ヶ月生きました。ファストフード主体のでたらめな食生活を続けていたのに、頑張って生きたと思います。

――1年9ヶ月の間、標準治療以外の治療は行いましたか。

倉田:胆管を通すステント手術を3ヶ月に1回、十二指腸が圧迫されたときは胃と小腸を繋ぐバイパス手術もしました。夫はいつ死んでもいいとは言うものの、死ぬまでの間に痛いのは嫌だし、好きなものを食べられないのも嫌だったんです。治療はそうした苦しみを和らげる目的で行ったものです。

――がんと宣告されると、頭の中が真っ白になる人がほとんどではないでしょうか。標準治療を受けないと決めるのは、そうそうできることではりません。治療を受ければ長生きしたのではないかと、倉田さんも複雑な思いを抱くことがあったのではありませんか。

倉田:そうですね。そこは、私と足並みはそろっていなかったですね。本人は最後まで何の後悔もなく生きたとは思いますが、私は正直1日でも長く生きてほしかったです。

■亡くなる前日の食事はファミチキ

――私が叶井さんにお会いしたのは10月でしたが、それ以降、体調の変化はあったのでしょうか。

倉田:12月ごろから、だんだん冗談を言ったり笑ったりする頻度が少なくなりました。体が弱ると、精神的な余裕の部分が削れていくのがわかります。12月半ばから腹水が溜まるようになり、体調が急激に悪くなっていきました。それでも、12月中は毎日のように会社に行き、1月も毎日ではありませんが、何度か会社に行っていましたね。

――体調が悪いとはいえ、驚くべき体力ですね。

倉田:亡くなったのは、自転車に乗れなくなって10日後のことです。私は、もっと体が弱って、何もできなくなってから死が訪れると思っていたのです。しかし、夫は一度も寝たきりになった日はありませんでした。

――叶井さんが亡くなる直前のことを、うかがってもよろしいでしょうか。

倉田:当日の様子は、まだここではっきりと言うのはしんどいものがあります。もう少し時間が必要かな……。それはもう、濃い1日でしたから。自分の頭の中では思い出すけれど、言葉で表現するのは難しいんだよね。

――失礼しました。話せる範囲内で、お答えいただければと思います。

倉田:亡くなる前日、夫は少し家の外を散歩していました。あとは、シャワーを浴びて、ひげを剃って、お風呂に入っていましたが、これらは亡くなる日まで1日も欠かしませんでした。前日に食べたのはファミチキです。タルタルソース入りが食べたいとリクエストされたので、私が買いに行ったんだけれど、あいにく売り切れ。食べさせてあげられなかったのが心残りです。

――死の直前にファミチキを欲するのが叶井さんらしいですが、前日まで普通の日常を送っていたことがわかります。

倉田:おっしゃる通り、前日まではごく普通の日常だったんです。ところが、当日は昼ぐらいから意思疎通が難しくなった。息を引き取ったのは夜中です。目の前で見ていたのですが、顔色がヒュッと変わったような気がしたら次の呼吸がなく、「父ちゃん、息をして」と言ったのですが……。それが、最後にかけた言葉になってしまいました。それでも言葉は最後まであったし、夫らしさは維持できていました。

■看取ることができてよかった

――普段通り過ごしていたからこそ、最後を看取ることができたわけですね。

倉田:もし、入院していたら最期を看取れなかったでしょうね。亡くなったのは夜中だったし、「旦那さんが亡くなった」と病院から伝えられる形で、死を知ったかもしれない。もっとも、はじめは夫も私も自宅で死ぬのは嫌だと思っていました。痛いときにすぐ処置してくれるから、病院の方が安心だと思っていたんですよ。けれども、22年に夫が長く入院をしたとき、治療中に全身に激痛が走ったそうです。相当辛かったのでしょう。退院後は「絶対に家で死ぬのがいい」と言い出したんです。

――その思いを受けて、倉田さんの考えも変わったわけですね。

倉田:もし意識がなくなり、点滴とおむつ交換をするだけの状態だったら、考えは違ったかもしれない。けれども、夫は話せるし、「ガリガリ君を食べたい」とか言ってくるんですよ。毎日できていることが病院だとできなくなるわけでしょう。それは怖いと思いましたし、この人を目の届かないところにおくのは嫌だと思いました。

――かくして、最期まで自宅で過ごすことになったわけですね。

倉田:そのおかげで、結果的に看取れたのはよかったと思います。でも、亡くなる瞬間を目の当たりにするわけですから、看取るのは精神的にもしんどいと思いました。私は周りに決してすすめません。荷が重いと思う人はいても当然だし、その感覚は人それぞれでいい。私の意見はあくまでも参考にしていただければと思います。

■食べ物のことが心残り?

――倉田さんが叶井さんと過ごした日々は濃厚だったと思いますが、振り返って、これをしておけばよかったなという後悔はありますか。

倉田:先ほどファミチキの話をしましたが、一番は食べ物のことでしょうかね。夫はジャンクフードが好きで、癌が進行して量が食べられなくなっても、前々日はマクドナルドのフライドポテトとチーズバーガー、ナゲットを食べているんです。胃と小腸を繋いでからも、おなかが痛くなるとわかっていてもカップ麺を食べるんですよね。亡くなる1ヶ月前にもカップ麺を食べて、私が「二度と食べないで!」と叱ったことがありました。これは、強く言い過ぎたなと後悔しています。

――叶井さんのジャンクフードへの執着は凄いですね。

倉田:夫は腹水を抜き始めてから体が弱るスピードが速まっていきました。夫の腹水の成分を調べたら、がん細胞がなく、抜く必要がないという意見もあったんです。ただ、2~3リットルくらい抜けば少し楽になるし、何より食べることができるという理由で毎週抜いていたのですが、私は本音では抜いてほしくなかった。抜いた分、体が無理をして水分を作っているわけですからね。特に、腹水を抜いた翌日、管の穴から水漏れしていた日があって、そのときは本当に弱ってしまいましたから。

――末期がんになると、一つ一つの治療が体調に大きく影響しますからね。

倉田:ただ、おおむね本人がやりたいようにやったので、よかったと思います。手術や抗がん剤治療を受けるかどうか、これはがん治療の大きな選択です。夫は一切やらないと決めて、私もそうすべきと決めた。大きな決断でしたが、夫が選んだことですから、私はその判断は正しかったと思っています。

■やりたいことを我慢せずに生きる

――私事で恐縮ですが、私は叶井さんの話を聞いて、死生観が大きく変わりました。余命宣告されたても死を怖がらず、やりたいことをとことんやるべきだと。叶井さんは末期がんをむしろポジティブに捉え、末期がんになったからこそかえって仕事がスムーズに進むと考え、全力で活動していました。そんな姿を見て、目から鱗が落ちました。

倉田:私が夫から学んだ死生観のひとつは、普段からやりたいことはやっておけ、後回しにするなということ。事実、精一杯楽しいことをやってきたから、死の直前でも、本人は後悔することは一つもなかったと思います。結婚すると、趣味や仕事のやりたいことを我慢するケースがあると思うけれど、我が家は何も我慢しませんでしたし。

――お互いに自由で、束縛されない関係だったというわけですね。

倉田:私は父を22年に亡くしているのですが、父の死後、母は急に習い事を3~4つも始めました。旅行にでかけたり、ランチに行ったりと、一気に人生が楽しくなったようです。配偶者が嫌な顔をするからと気を使い、やりたいことをやれずにいる夫婦は多い。中村うさぎさんはいつも自由だけれど、結婚後、女友達と何日か旅行できる配偶者持ちって、あんまりいないんですよ。夫は「ママはママの好きなようにやって」と言ってくれたから、私は家事も仕事も自由にしていましたし、夫も自由に振る舞うことができたんです。

――お互いの立場を理解し合い、尊重していたことがわかります。

倉田:それってすごく大きくて、相手のために我慢しなかったから、夫の「いつ死んでもいい」という気持ちもよくわかるんです。ただ、父の死後に趣味を楽しんでいる母と違って、私はめそめそしてしまうかな。3か月以上経っても、泣いてしまうし。

――倉田さんにとって、最高の夫だったんですね。

倉田:合わない人は結構いたと思うんです。だって、3回も結婚に失敗しているし、なんでもかんでも上手にできる人じゃないし、金遣いは荒いし、そういうのが嫌だという人とは相性が悪いと思いますね。それでも、私にとっては最高の夫でした。

■赤の他人として関わっても、好きだった

――叶井さんは破天荒なイメージがありますし、倉田さんが付き合う上で苦労も多かったのでは、と想像してしまうのですが。

倉田:私は婚約指輪も結婚指輪ももらっていないし、誕生日のプレゼントを買ってもらったことがないんですよ。むしろ私に半分お金を出させて、夫は自分用の指輪を買っていましたから。自己破産をしているとはいえ、それなりに収入があったのですが、全部自分で使ってしまうからいつもお金がない。しかも、家にはちょっとしかお金を入れないから、節約して家計をやりくりするのは私の係になります。夫は全身ブランド物なのに、私はしまむらとかね(笑)。

――さすが叶井さん、なんでも極端ですね。

倉田:夫は、しまむらの店を見つけると子どもの前で「ほら、ママの好きなお店だよ」と言ったりしていました。私は、「いやいや、しまむらの服を着ているのはあんたのせいだろ!」と怒ってみせるけれど、とにかく行動や発言がいちいち面白いわけ(笑)。腹が立つ冗談も多かったし、がんになってからは死んだふりをして私を驚かせたりもしたけれど、それらも含めて相性が全部よかったんです。

――叶井さんを倉田さんに紹介した中村うさぎさんは、「くらたまは絶対にすぐ離婚すると思っていた」と話していましたが、長く続いた理由は相性にあったわけですね。一方で、叶井さんはそのイメージからは想像できないほど、子煩悩だったとか。

倉田:子どものことは本当に甘やかしていましたよ。まさに子煩悩ですね。夫にとって、一番大事なのは子どもだったと思います。私の誕生日には何のプレゼントもないのに、娘の誕生日にはお金をかけて好きなものをプレゼントしていましたから。まあ、その損失補填は私がするんですけれどね(笑)。そのバランスのおかしさもよかったです。

――14年以上に及んだ結婚生活を振り返って、倉田さんはどう思われますか。

倉田:夫は掃除や皿洗いなどの家事を手伝ってくれてありがたかったけれど、それよりも面白かった日々を思い出します。あの夫らしさは夫にしかないもので、それをこの先味わえないんだなと思うと、喪失感を感じ、辛いものがありますね。未だに思い出すと涙が出てくるし、父や祖母が亡くなった時よりも桁違い、100倍以上泣いているかもしれない。夫は本当に魅力的な人物。仮に結婚していなくて、赤の他人として関わっても、きっと好きになっていたでしょうね。