とにかく一刻も早く福井から京都に戻りたい…父の赴任に同行して越前に行った紫式部がやっていたこと

AI要約

996年、紫式部が父・藤原為時とともに越前に赴任。為時は越前守に抜擢された理由や紫式部の不安を詠んだ歌について考察。

為時が漢詩文に通じていたことから越前守に任命された経緯や、紫式部が父と共に越前に向かう理由について。

紫式部が旅の途中で都を恋しがり不安を感じながら越前に向かう様子を歌に込めていたことについて。

996年、紫式部は父・藤原為時の赴任に同行して越前へ向かった。歴史評論家の香原斗志さんは「1年ほど、彼女は越前で暮らし続けるが、越前の風物を詠んだ歌や国内を移動した記録は残っていない。父の世話をしながらも、都を懐かしがってばかりいた」という――。

■紫式部の父・為時が「越前」の長官に大抜擢された理由

 まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の父、藤原為時(岸谷五朗)が10年ぶりに官を得て、越前守(現在の福井県東部にあたる越前国の長官)として赴任することになった。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第20回「望みの先に」(5月19日放送)。

 第19回「放たれた矢」(5月12日放送)では、為時は淡路守に任命されていた。ただ、当時、68ほどあった国は、国力によって「大国」「上国」「中国」「下国」の4つに分けられていて、淡路国(兵庫県淡路島、沼島)は「下国」だった。ところが、第20回で赴任先が一転、「上国」の越前国(福井県北東部)に変更になったのである。

 実際、史料によっても、長徳2年(996)正月25日の除目(大臣以外の官職を任命する朝廷の儀式)では、越前守に源国盛(ドラマでは森田甘路)が任命されながら、その3日後には、為時に変更になっている。

 前年9月、若狭(福井県南西部)に宋国人70余人が上陸し、越前に移送されていた。越前守は、交易を求める宋の人たちと折衝する必要があったので、急遽、漢詩文に堪能な為時が抜擢されたと考えられている。

■為時が活用したかったまひろの能力

 『今鏡』などに掲載されている説話によれば、淡路守に任じられたとき、為時は以下の漢詩を書いたという。「苦学の寒夜 紅涙襟をうるほす 除目の後朝 蒼天眼に在り(厳しく寒い夜も学問にはげみ、血の涙で襟を濡らしてきたが、除目の結果を知った翌朝、目には青空が映るだけだ)」。

 要するに、努力をしてきたのに、所詮は下国の国守――という嘆きである。これを一条天皇が読んで感涙し、それを受けて、藤原道長が為時を越前守にした――という話になっている。

 むろん、説話だから史実かどうかわからない。ましてや「光る君へ」では、この漢詩を添えた為時の申文は、まひろが書いて道長(柄本佑)のもとへ届け、まひろの筆跡を確認した道長が為時を抜擢したように描かれたが、これはドラマの創作である。

 とはいえ、為時が漢詩文に通じていていればこそ越前守に抜擢された、ということは、まちがいなさそうである。第20回でまひろは為時に「越前は父上のお力を活かす最高の国だから、胸を張って行かれませ。私もお供いたします」と、笑顔で告げた。史実の紫式部も父に同行し、越前に赴いている。

 為時には一緒に下向する妻がおらず、長女もすでに亡くなっていたので(ドラマには登場しないが、紫式部には姉がいた)、紫式部が同行したことに違和感はない。また、紫式部も漢詩文に通じていたので、為時は娘も宋人との交渉に役立てたかった、と考えても無理はないだろう。

■3つの歌からわかる不安

 父娘が越前に下向したのは、長徳2年(996)の夏以降のことだった。都を出発した為時一行は、粟田口から山科を経由して逢坂山を越え、大津の打出浜(現在の滋賀県大津市松本町あたり。湖岸が埋め立てられ、びわ湖ホールなどがある)に出ると、そこからは船で琵琶湖西岸を北上した。その途上で紫式部は、さっそく歌を詠んでいる。

 「三尾の海に網引く民のてまもなく立ち居につけて都恋しも(琵琶湖西岸の高島の三尾の崎で、漁のために綱を引いている漁民が、手を休めずに、立ったりしゃがんだりしているのを見ていても、都が恋しいものです)」

 これまで都にしか住んだことがなかっただけに、早速、故郷が恋しくなったのだろう。また、当時の旅は危険と隣り合わせでもあったから、不安も募ったものと思われる。

 「かきくもり夕立つ波のあらければ浮きたる船ぞしづ心なし(空が暗くなって、夕立になるときの波が荒いので、その波に揺られている船の上では、心が不安で落ち着きません)」

 琵琶湖北岸の塩津(長浜市西浅井町)に上陸すると、国境の塩津山を越えて敦賀(福井県敦賀市)に入った。そこはもう越前である。そして山を越えたところで、彼女の輿をかつぐ人足たちに諭すように歌を詠んだ。

 「知りぬらむゆききにならす塩津山よにふる道はからきものぞと(わかったでしょう、あなたたちは往き来に慣れている塩津山だけど、世を渡っていく道としては、塩という名であっても、つらいものだと)」

 むろん、諭しているように聞こえて、これからの越前での暮らしへの不安が詠まれているものと思われる。