家康が死の間際に「もう会えなくなるな」と惜しんだ…城郭の新しいスタンダードをつくった天才武将の名前

AI要約

藤堂高虎は伊賀上野城の天守を建造し始め、豊臣方を威圧する目的も持っていたが、大風雨で天守が倒壊し多くの犠牲者が出た。

高虎は伊賀上野に城下町を造成し、広い道路と直線的な都市設計を行い商工業の発展を支えた。

さらに津城を大規模に改修し、既存の城を活かしながら居城として整備した。

戦国時代の武将、藤堂高虎とはどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「元は秀吉配下の武将だったが、途中で家康に傾倒した。彼のために下僕のように働いたことから、外様ながら譜代大名のような待遇を受けた」という――。(第3回)

 ※本稿は、河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

■家康が伊賀上野城を建てさせた目的

 藤堂高虎は、伊賀上野城の本丸に、五重の天守を建造し始めた。当初は今治城の天守を移築する予定だったが、幕府の丹波亀山城に寄進したので新築することになったのだ。

 高さは天守台を含めて34メートルを予定していたという。30メートルの高石垣で囲まれた本丸の上に立てるのだから、優に60メートルを超える。いまでいえば20階建てぐらいのビルに相当する。

 一説には、大坂城の豊臣方を威圧する目的があったという。伊賀上野城の天守は、大天守に小台(小天守)を接続させる複合式天守だったらしい。らしいというのは、建設途中で断念してしまったからである。じつは、とんでもないアクシデントに見舞われたのである。

 慶長17年(1612)9月2日、作事(普請)は順調に進んで天守はほぼ完成し、五重目の瓦を葺き終えたところだった。だがこの日、伊賀上野周辺がにわかな大風雨に見舞われたのである。

 城普請を統括していた奉行の石田清兵衛は、できるだけ天守の破損を防ごうと、大工や職人たち数十人を指揮して懸命の作業をおこなっていた。しかし、風雨はますます強まり、とうとう天守の三重目を吹き崩し、そのまま建物は東南方向に倒壊してしまったのだ。

■画期的な城下町

 一階と二階部分は残存していたというから、真ん中(三階)から折れて吹き飛んだのだろう。倒壊したさい、その振動や音は数里先まで聞こえて、近隣の住民を驚愕させたという。それだけではない。この事故で多くの犠牲者が出てしまったのだ。なんと180人が亡くなり、多数が負傷したと伝えられる。

 しかも、このとき天守に上がっていた作事奉行の平松喜蔵は転落死している。石田清兵衛も天守におり、15メートルほど吹き飛ばされて墜落したが、傘を持っていたのでどうにか死は免れた。ただ、このときの事故で負傷し、一生身体が不自由になってしまったという。

 天守倒壊後、高虎が新たに天守を建てることはなかった。一説には、わざと豊臣方を安心させるために崩したとか、巨大な天守をつくって徳川方に疑われぬよう取り壊したという説もあるが、さすがにそれはあり得ないだろう。

 伊賀上野には新たに城下町を造成したが、これにも高虎の特色がよく出ているという。

 研究者の藤田達生氏は、「高虎の城下町の特徴は、非常に幅の広い道路を何本か並行して直線的に通し、それに何本か街路を直行させていくという面的な広がりを持つ都市設計に求められる。これは今治城下町で確認されるが、転封によってさらに明瞭となった。たとえば上野城下町では本町筋を四間幅(約7.2メートル)、二之町筋・三之町筋を三間幅としている。整然とした開放的なプランを実現し、人と物の集まりやすい環境をつくることによって、商工業の発展を支えたのである」(「藤堂高虎の城づくり・町づくり―今治から津へ―」藤堂高虎公入府四百年記念特別展覧会『藤堂高虎その生涯と津の町の発展~』津市・津市教育委員会編所収)と述べている。

■津城をリフォームする

 伊賀上野城は家康のための城なので、高虎は伊勢国津(安濃津)に自分の居城をつくり始めた。その名からわかるとおり、津は平安時代から栄えた港町であり、もともと小規模な城が存在した。その後、このあたりは織田信包(信長の弟)の領地となり、さらに秀吉時代に富田知信(一白)が入城している。

 そんな津城を高虎が大規模に改修して居城としたのである。とはいえ、藤田達生氏によれば、「それまでの城郭を潰したり移転したりして立派なものにつくり変えるということはせずに、既にあるものを使ってどこまで拡大できるのかということに挑戦したようだ。したがって、天守や本丸はできるだけ活かしたものとなっている」(藤田達生著『江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎』講談社現代新書)とある。

 事実、本丸を北側と東側に広げて高虎が好む正方形にしたが、内堀の中に一直線に西の丸、本丸、東の丸が並ぶ(連郭式)形状は富田氏時代からのものだといわれる。石垣も犬走りがあるところと、ないところがあり、犬走りを有する箇所は富田氏時代のものと考えられ、それをそのまま使用したらしい。