じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」

AI要約

日本書紀に記録された古代の地震情報から、地震がどのように記録され、日本にどんな影響をもたらしてきたかを知ることができる。

南海トラフ地震を含む白鳳地震の記述から、古代の大地震がどれほどの規模で発生し、被害を与えたかが窺える。

当時の人々の地震への認識や神話との結びつき、未来に起こりうる南海トラフ巨大地震への備えについて考える。

じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」

今後30年以内に高い確率で発生が予測されている「南海トラフ巨大地震」。果たしてその実態はいかなるものなのだろうか。その巨大な災害はどのようなメカニズムで発生し、どのような被害をもたらすのだろうか。そして、われわれはその未来にどう備えればよいのか。防災・危機管理アドバイザーの山村武彦氏に解説してもらった。

過去を振り返ると、古事記と並び伝存する日本最古の歴史書である「日本書紀」には、地震の記述が複数みられる。それらの記述の中で、日本最古の地震記述といわれるのは、日本書紀の允恭(いんぎょう)天皇5年7月14日の項に記されている「五年秋七月丙子朔、己丑、地震」。西暦に直すと416年8月23日になる。当時は「地震」と書いて「なゐふる」と読んだ。「なゐ」は大地を表し「ふる」つまり振れる(揺れる)の意味で、読み方は異なっても大地が震える地震(じしん)を表している。

しかし、この允恭の地震について規模や被害程度などは何も記されていない。被害の模様を記したものは、推古7年4月27日、西暦599年5月28日に起きた大和の地震。「建物がことごとく倒壊し、四方に令(のりごと)して、地震の上を祭(いの)らしむ」と書かれている。当時の人々は地震(なゐふる)を、神によって引き起こされたものと考えていたようだ。ただこの地震も大和の国で甚大被害があったことが記述されていても、それ以上規模や被害の詳細記述はない。

時代が進み、40代天皇の天武天皇(在位:673年3月~ 686年10月1日)の御代になると、諸国から中央へと情報が集まりやすくなっていく。中央集権・律令国家の基礎が築かれ、各地で起きた紛争や災害などの情報が、速やかに大和の朝廷に届くようになった。記紀(日本書紀・古事記)編纂に着手したのもこの時代といわれる。

日本書紀の天武天皇13年10月14日に白鳳地震の記述がある。「壬辰(みずのえたつのひ)に、人定(いのとき)に逮(およ)んで、大きに地震(なゐ)ふる。国挙(こぞ)りて男女(おのこめのこ)叫び唱(よば)ひて不知東西(まど)ひぬ。則(すなわ)ち山崩れ河涌く。諸国(くにぐに)の郡(こおり)の官舎(つかさやかず)、及び百姓(おおみたから)の倉屋(くら)、寺塔(てら)神社(やしろ)、破壊(やぶ)れし類(たぐい)、勝(あげ)て数(かぞ)ふべからず。是に由(よ)りて、人民(おおみたから)及び六畜(むくさのけもの)、多(さは)に死傷(そこな)はる。時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず。土左国の田菀(たはたけ)五十余万頃(いそうよろずあまりしろ)、没(うも)れて海と為(な)る。古老(おいひと)の曰(い)はく、『是(かく)の如(ごと)く地動(なゐふ)ること、未だ曾(むかし)より有らず』といふ」と。これが詳細に記録された最古の大地震といわれる。記録に残る南海トラフ地震と推定される白鳳地震である。

現代訳にすると「684年10月14日、夜10時ごろ大地震があった。国中のみんな叫び合い逃げ惑った。山は崩れ、川は溢れた。諸国の郡の官舎や住宅、倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人も多数死亡し家畜の被害も多かった。伊予(いよ・愛媛県)の道後(どうご)温泉の湯が出なくなり、土佐の国では田畑五十余万頃(約千町歩・約12平方キロメートル)が埋まって(沈下して)海となった。古老は『このような地震はかつて無かったことだ』と云った。

さらに、「この夕、鼓(つづみ)の鳴るような音が東方で聞こえた。『伊豆の島(伊豆大島)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、一つの島が出来た。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』と云う人があった。土佐の国司(こくし)が言うことには『高波が押し寄せ、海水が湧き返り、調税を運ぶ船がたくさん流失した』と報告した」と続く。

高波が押し寄せ、海水が湧き返り、船が多数流失するほどの大津波が押し寄せたとある。中には海底隆起か噴火を思わせるような記述もあり、地震(地殻変動)×大津波×噴火という複合大災害だったのではないかという推測もある。いずれにしても、激甚さや被害範囲などを勘案すると、白鳳地震は「白鳳南海トラフ巨大地震」と考えられる。