【戦後79年】千葉県の公園に残る「奇妙な階段」、その悲しすぎる目的とは〈写真付き〉

AI要約

太平洋戦争から79年目の夏を迎えて、戦争体験者の減少による戦争の実態の伝承の重要性について考える。

日本各地の戦争遺跡の現状と保存の必要性について取り上げる。

戦争遺跡の一部である要塞跡の事例を通じて、平和教育への関心を喚起する。

【戦後79年】千葉県の公園に残る「奇妙な階段」、その悲しすぎる目的とは〈写真付き〉

 太平洋戦争に終止符が打たれてから、79年目の夏を迎えた。世界から一向に戦争がなくならない現状を憂い、今後の平和教育を考える意味で、日本の各地に残された戦争遺跡に着目してレポートする。(フリーライター 友清 哲)

● 戦争の語り部が 不在になる時代に備えて

 戦後79年。これはつまり、当時10歳だった子どもが間もなく90歳を迎えるということであり、戦争体験者の多くが鬼籍に入ろうとしている現実がある。

 団塊ジュニア世代である筆者は、小中学生の頃に課外授業の一環で、戦争体験者から戦時中のエピソードを直接聴く機会が何度かあり、あまりにも凄惨な戦禍の実態に震え上がったものである。しかし、戦争をリアルに知る世代がいなくなれば、そうした機会も失われてしまう。

 では、現代の子どもたち、そしてこれからの子どもたちは、どのような形で戦争の悲惨さと不毛さを学べばいいのか。

 体験談に触れる機会が失われるなら、せめて当時の遺構を貴重な物証としてできるかぎり記録し、保存することで、平和教育に生かすべきではないか。筆者が全国各地に眠る戦争遺跡をルポルタージュするようになったのは、そうした課題意識からのことである。

 戦争遺跡は実は、我々の日常のすぐそばにも眠っている。なかには形を変え、それと認識されないまま記憶から埋もれてしまっているものも少なくないのが実情だ。例えば、神奈川県横須賀市の街中には、かつての防空壕を転用した車庫や倉庫が多く見られる。

 あまり肩肘張らずに、日常の延長線上にあるものとして戦争遺跡に注目してみてほしい。ここでは、筆者がこれまで記録してきた戦争遺跡の一部を選りすぐり、レポートしていきたい。

● 自然の中に渾然と映える ファンタジックな要塞跡

 戦争遺跡とひとくちに言っても、その種類はさまざま。まずご紹介するのは、往時の「要塞跡」だ。

 要塞とはすなわち軍事拠点であり、外敵がやって来る海辺、あるいは海岸線を見下ろす高台に設けられているケースが多い。たとえば首都防衛の要となった東京湾の猿島(神奈川県)は、いまでは軍事施設の遺構と自然が調和した、ファンタジックな風景が観光客を魅了している。

 船を降りて島内を少し歩けば、レンガ造りの弾薬庫跡などが立ち並び、独特のムードを醸している。切り立った岸壁を掘り込むように設けられてるのは、上空からの発見を免れるためである。内部に立ち入ることはできないが、柵越しでも十分に感じるものは多いはずだ。

 一方、西には大阪湾防衛の拠点として機能した友ヶ島(和歌山県)がある。友ヶ島とは紀淡海峡(大阪湾の入口部分)に浮かぶ4つの島の総称で、一般的には沖ノ島のことを指している。

 猿島同様、レジャー客で賑わうスポットではあるが、島内には6つの砲台跡のほか、弾薬庫や将校官舎、照明施設、さらには今世紀になってから発見された海軍の聴音所など、多くの戦争遺跡が残されている。

 島内には戦時中そのままの、未舗装の遊歩道が広がっている。いくつかの遺構は立ち入りが可能で、着の身着のままで安全に戦争遺跡を見学できる貴重なスポットだ。もちろん、兵舎も弾薬庫も今はもぬけの殻だが、往時のムードを存分に体感してほしい。

 近年、遺構と自然が渾然と調和する風景を指して「ラピュタの島」などと形容されることもある友ヶ島だが、関心のきっかけはそのくらいお気軽でもいいのだろう。戦争遺跡への興味関心を、平和教育への取っ掛かりとすることが、筆者が遺跡保存を訴える最大の目的だ。