「男の名字を名乗るのも、女の名字を名乗るのも平等とはいえない」“夫婦同姓”に疑問を投げかける、福沢諭吉の意外な主張
日本では結婚後に夫婦どちらかの姓を選ぶ「夫婦同姓」制度が採用されています。しかし、2022年の厚生労働省の調査によると、結婚した夫婦の94.7%が男性側の姓を選択しており、「選択的夫婦別姓」制度導入を望む声は年々高まっています。
明治時代に入って、政府は身分特権を否定し、平民も苗字を公称することを認めました。これは全国民を「戸籍」を単位として掌握するための措置でした。戸籍には姓が記載され、名は個人を特定する役割を果たしました。
姓や名前を気軽に変える習慣があった日本で、明治初期には姓が生涯変わらないとする考え方が支持されました。結婚後も女性が実家の氏を名乗る慣習が残り、政府の政策もそれに従っていました。
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日本では結婚後に夫婦どちらかの姓を選ぶ「夫婦同姓」制度が採用されています。しかし、2022年の厚生労働省の調査によると、結婚した夫婦の94.7%が男性側の姓を選択しており、「選択的夫婦別姓」制度導入を望む声は年々高まっています。
ここでは、社会学者の阪井裕一郎さんが「結婚」の常識を問う 『結婚の社会学』 (筑摩書房)から一部を抜粋して紹介します。そもそも日本の歴史において「夫婦同姓」はいつ始まったのか。福沢諭吉が提唱した意外な案とは――。(全4回の4回目/ 最初から読む )
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基本的に、明治以前は庶民が苗字をもつことは許可されていませんでした。江戸時代は、「苗字帯刀御免」といわれ、苗字を名乗ることは帯刀とともに武士階級の特権でした。百姓や町人は、幕府や領主の許可がなければ苗字を公称することができなかったのです。
明治時代に入って、政府はこうした身分特権を否定する政策をとります。1870年に「自今平民苗氏被候事」という太政官布告が出され、平民も苗字を公称することが認められました。
明治政府は、不平等条約の改正などの対外的な事情によって、強力な中央集権国家を建設する必要に迫られていました。徴兵や治安維持、教育などの必要から国民すべてを「戸籍」を単位として掌握するため、氏と名で特定することが求められたのです。
ここで戸籍作成のためにすべての国民が姓を名乗ることを義務づけたわけですが、これは「夫婦の姓」ではなくあくまで「家の姓」だという点も重要な点です。姓は家を示し、名は家の中での個人を判別するものになりました。
このころより、一度決まった戸籍に届けた氏を変えることは禁止されます。
それまでは、名字も名前も気軽に変えることはありふれたことだったのです。日本には人生の節目ごとに名を改めるという慣習も多く存在していました。生涯を通して複数の名前をもつことは、まったく珍しいことではありませんでした。
明治初頭におこなわれた民法編纂の過程では、政治家や専門家のあいだで姓の規定をめぐって議論が闘わされましたが、初期の議論では、姓は生涯変わらないとすべきという考え方が優勢でした。
たとえば、1872年の司法省による民法草案『皇国民法仮規制』の第40条では、男女ともに婚姻後も氏を変更しないと規定されています。それから約20年後の1891年の司法省指令においても、女性は結婚後も生家の氏を名乗るという規定は残っています。つまり、妻の氏についての明治政府の政策は、それまでの慣習にしたがって実家の氏に固執していたわけです(井戸田博史『夫婦の氏を考える』)。