アメリカ人が陶酔する「正義の暴力」に追随すべきではない 日本人は銃を持たない「美しい戦い」を目指せ 古賀茂明
アメリカのニュージャージーシティでの滞在期間中に感じた治安の悪さや大統領選挙における候補者の強さの重要性について語られている。
アメリカが暴力の国であるという前提について考察し、暴力や戦争に対するアメリカの価値観についても述べられている。
候補者の強さは大統領選挙において極めて重要であり、バイデン大統領の高齢やトランプ氏の暗殺未遂事件がそれぞれ影響を与えた。
7月16日配信の本コラムでお伝えしたとおり、筆者は6月下旬からアメリカのジャージーシティという街に来ている。ニューヨーク州の隣のニュージャージー州の中にある。ニューヨーク市のマンハッタンからハドソン川の対岸を望むとよく見える街だ。
ニュージャージーというとあまり良いイメージはない。統計で見ると、それほど治安が悪いわけではなさそうだが、私が滞在している5週間の印象では、殺傷事件や火事などが多発しているという感じだ。警察官が襲われる事件も起きた。
そもそも、アメリカという国は、暴力の国だから仕方ないのかもしれない。先進国でありながら、銃の犯罪が日常茶飯事という国はほかにない。
そこには、「暴力は悪」だという前提がないように見える。暴力には「良い暴力」と「悪い暴力」があるという考え方の方が強いのではないか。正義のために悪と戦うのであれば暴力は正義となる。自衛のためであればもちろん、文句なく正義の暴力だ。
そして戦うためには銃が必要だ。
2023 年の銃による全米の死者数は、約1400人のティーンエージャーと300人近い子どもを含む約4万は、23年の銃の発砲件数は9件で死者数は7人。比較にならない。
アメリカが世界中で常に戦争を起こし、あるいは関与し続けているのも、「正しい暴力」により正義を実現することが必要だという建前による。
すべての戦争は、「自衛のための戦争」だと宣伝されるが、「自衛」の概念があまりにも拡大されていて、とても額面通りには受け取れない。実態は、アメリカの利益のための戦争という面が強く、仮にそれを否定したとしても、「『アメリカにとっての』正義」のための戦争、アメリカの価値観、いや利益のための戦争としての意味の方が大きいように見える。
■筆者が見た大統領選の「強さ」
筆者がジャージーシティに滞在して5週間になるが、その間に様々なイベントや事件が起きた。
6月27日にあったバイデンvs.トランプの公開討論でバイデン大統領の高齢不安が極度に高まり大統領選からの撤退を求める声が民主党内外で急速に強まった。
7月4日の独立記念日には、コロナ禍の中では見られなかった盛大なお祭りが全国で繰り広げられ、ニューヨークでも大きな花火を見ることができた。独立記念日がこれほど大きな意味を持つのかということをあらためて再認識した日だった。
7月9日からNATO首脳会議が開かれ、11日にはその関連会合でバイデン大統領が、ウクライナのゼレンスキー大統領をプーチン大統領と言い間違えたり、記者会見では、ハリス副大統領をトランプ副大統領と言い間違えたりして、さらに傷を深めた。
さらに、7月13日にはトランプ前大統領暗殺未遂事件が起きた。
そして、バイデン大統領が大統領選から撤退し、ハリス副大統領を民主党の大統領候補に推すことを表明。正式決定は8月19日からの民主党全国大会になるが、事実上ハリス氏の大統領候補指名獲得は決まったようだ。
これら一連のイベントや事件を見て感じたのは、大統領になる資格として、「強さ」が非常に重要だということだ。
バイデン大統領は、高齢であることが、「弱さ」を示すものとして致命的な欠点になってしまった。
一方のトランプ氏も高齢ではあるが、暗殺未遂事件の際の対応(壇上で倒れた床から立ち上がって車に移動する前に、警護官を静止して拳を突き上げ、「ファイト!」と3回叫び、車に乗る前にも同様の行動をとった)により、「強さ」を印象づけた。
ハリス氏が大統領候補としてトランプ氏と互角以上に戦えるのではという見方もでているが、実は、あらゆるニュースに共通するのは、女性差別の壁が、なお大きな障害になるのではないかという留保をつけている点だ。