「文系不要論」が叫ばれるが…「文学の研究者」が「人文学に価値などない」と考えてしまうに至ったワケ

AI要約

人文系の論文・レポートを書くための技術を網羅的に提供する『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(阿部幸大著)では、「そもそも人文学の研究には意味があるのか?」ということも問われています。

研究者の仕事は、アカデミックな価値を生み出すことであり、よりすぐれた論文を書くことを目指している。そこで、よい論文とは何か、論文に価値があるとはどういうことなのかについて考えられている。

問題は論文や研究書の「アカデミックな価値」だけでなく、アカデミズム自体に価値があるのかという点にも及んでいる。人文学やその活動が社会やこの世界にどのような価値をもたらすのかが問われている。

「文系不要論」が叫ばれるが…「文学の研究者」が「人文学に価値などない」と考えてしまうに至ったワケ

「文学部のやっていることは読書感想文とかわらない」「『文系』なんてお金をかけて学ぶ必要はない」――こうした根強い「文系不要論」に、どうすれば答えることができるのでしょうか。

人文系の論文・レポートを書くための技術を網羅的に提供する『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(阿部幸大著)では、「そもそも人文学の研究には意味があるのか?」ということも問われています。

世界的に評価される数々の論文を書いた気鋭の研究者は、この問いにどう答えるのでしょうか。

※本記事は阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』から抜粋・編集したものです

そもそも、なぜわたしたち研究者は論文を書くのか。正直に言おう、それは、単位のためであり、学位のためであり、就職のためであり、昇進のためだ。ようは、広義の「仕事」だから書くのである。

だがいったんそういった現実問題から離れて、あらためて問いなおしてみたいのだ。なぜわたしたちは論文を書くのか。なぜ人文学などという学問体系が存在し、なぜそれは一定の価値が認められ、たとえば大学という組織において場所が与えられ、予算がつき、支援され、保護されているのか。はたして、それは「必要」なのだろうか。

こうした疑念は、人文学の外から投げかけられつづけている。だが上記の問題に向き合うことは、そうした外部からの批判に応答するためなどではなく、われわれ自身にとって重要なことなのである。これは人文学の存在意義そのものにかかわる問題だからであり、それはもちろん、つぎの問題へとダイレクトにつながっている──わたしたちの存在意義はどこにあるのか?

研究者の仕事は、アカデミックな価値を生み出すことである。そして当然ながら、どのような論文もアカデミックな価値をひとしく産出しているわけではない。よりすぐれた論文は、より高い価値を生み出している。だからわれわれも、よりすぐれた論文を書くことを目指していてしかるべきである。

では、よい論文とはなにか? 論文に価値があるとはどういうことなのだろうか?

この問題に、べつの問いからアプローチしてみよう。あなたは人文学には価値があると信じているだろうか? いや、むしろつぎのように問うたほうがいいかもしれない──あなたは、なぜ人文学という学問が公的に保護・支援されねばならないか、その理由を説明せよと言われたら、どのように答えるだろうか?

いま問うている問題は、論文や研究書の「アカデミックな価値」ではない。わたしは、その論文のルールをつくったアカデミズムそれ自体に価値があるのかと問うているのだ。その文章や活動は、アカデミアの外部、つまり社会において、あるいは──これは大袈裟な話ではない──この世界において、いかなる価値をもちうるのだろうか。