なんでも”挿れる”過激すぎるストリップショーのリアル...「天狗の鼻」や「おカネ」、タマゴまで!?
一条さゆりは1960年代に頂点に君臨した伝説のストリッパーであり、その後生活保護を受けるまでの波乱万丈な人生を送った。
彼女の引退後から現代のストリップについてグロテスクさが強まったことが松原との対談で明らかになる。
ストリップ黎明期から活躍した松原は、グロテスクなストリップと決別する声明を出したことで一条との共通点が見受けられる。
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。
「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。
『踊る菩薩』連載第61回
『『ポニョ』『千と千尋』のプロデューサーが50年ぶりに告白する、「戦後ポルノの伝説」一条さゆり引退後の姿』より続く
松原と一条はビールを飲み、料理を食べながら話した。まず、松原が聞いた。
「最近のストリップっていうのは、すごいそうね。聞いたんだけど、あなた、犬や猫相手にナニするっていうじゃない」
これに対し一条は、ストリップがグロテスクになったのは自分の引退後であるかのように話している。
「なんか、そうらしいですね。それに『天狗』の鼻を使ったり、おカネや、タマゴなんかも入れてますものね」
「エエッ!タマゴ?」
松原は現役時代から、過激になる一方のストリップに強い嫌悪感を抱いていた。52(昭和27)年、彼女は仲間の踊り子2人と一緒に、「ストリップ廃業声明」を出している。主な内容はこうだ。
〈現在のストリップの世界には到底私たちの舞台人としての良心を満足させてくれるものがありません。いいえ私たちの誇りを傷つけることが今後ますます多くなってゆく傾向さえ現れて参りました〉
グロテスクになりすぎたストリップと決別する意思を示したのだ。一条がデビューしたのはこの「廃業声明」の6年後である。ストリップ黎明期を知る松原は「特出し」全盛のストリップには終始批判的だった。
松原は28(昭和3)年生まれ。一条の9つ年長である。旧制の女学校を出て貴族院で速記生をやっていた。趣味でバレエを習った経験から、アーニー・パイル劇場(占領下の東京宝塚劇場)の踊り子に応募する。
その後、彼女は進駐軍相手のショーガールをし48年2月、浅草ロック座で初めて、「動くヌード」を披露した。
その2ヵ月前には、東京・港区の観光ホテル地下で開かれたショーで裸を見せ、公然わいせつ物陳列容疑で摘発された。
松原は当時、「それほどどぎついものじゃなかった」と語っている。ストリップ関係者が捜査された最初の事件である。