「いつ逃げようか」 どん底に落ちた五輪メダリストの絶望と孤独 「結果が全て」と信じたけれど、弱さをさらけ出した先に見えたもの

AI要約

バドミントン女子シングルスの代表争いに競り負けてパリ五輪代表入りを逃した奥原希望の苦悩と挑戦を振り返る。

奥原の絶好調から急転落した東京五輪後の3年間、度重なるけがと闘いながらも挫折を乗り越え代表レースを戦い抜いた姿を紹介。

体の不調や痛みに苦しみながらも、自身の進化と成長を顧み、次に進む決意を固めた奥原の再出発への意気込みを描く。

「いつ逃げようか」 どん底に落ちた五輪メダリストの絶望と孤独 「結果が全て」と信じたけれど、弱さをさらけ出した先に見えたもの

 五輪の切符だけが必ずしも成功ではない―。バドミントン女子シングルスの奥原希望(のぞみ)(太陽ホールディングス・大町市出身)は、熾烈(しれつ)な代表争いに競り負けてパリ五輪代表入りを逃した。度重なるけがとの壮絶な戦いだった3年間。もがき苦しむ等身大の自分をさらけ出し、ファンに支えられながら代表レースを戦い抜いた29歳は「結果は出せなかったけれど〝過程の価値〟を初めて感じられた。悔いなくやり切れたからこそ次に進める」と笑顔で再出発の道を歩んでいる。

 これまでは、大小の挫折を味わいながらも右肩上がりの成長曲線を描いてきた。身長156㌢と小柄ながら豊富な運動量と縦横無尽に駆けるフットワークを武器に、国内最高峰の全日本総合選手権を史上最年少の16歳8カ月で制覇。21歳で初出場した2016年のリオデジャネイロ五輪でいきなり銅メダルを獲得。翌年の世界選手権で日本勢初の優勝を果たすなど、次々と歴史を塗り替えた。

 歯車が狂ったのは21年の東京五輪だった。新型コロナ感染拡大によって開催が1年延長されたことで、続くパリ五輪までの準備期間は3年間に短縮。「いま思えば(東京五輪後に)思い切って休んでも良かった」と振り返る。だが、ワールドツアーから長期間離脱すれば、世界ランキングが下り、格付けの高い大会への出場権を失う。葛藤を抱えながら「状態が上がらない中、ずるずると試合をしていた」という。

 代償は大きかった。右足首痛、右膝痛、右大腿(だいたい)骨の疲労骨折、右内転筋肉離れ、左ふくらはぎ肉離れ…。酷使し続けた体が次々と悲鳴を上げた。「少し状態が良くなって試合に出ても、すぐに疲労がたまってエラー(故障)してしまう」。復帰と離脱を繰り返す悪循環に陥った。

 特に古傷だった右膝痛に悩まされた。23年の世界選手権ではベスト8に入って復活をアピールしたものの右膝痛が再発。なかなか回復の兆しが見られず、全力でコートを走れない。「痛みと故障が怖すぎてバドミントンをしている感覚がなかった。私は何をしているのかな、と。(東京五輪後の)最初の2年間は競技を続けるか、続けないかぎりぎりの状態だった」と明かす。