NHK大河ドラマを信じてはいけない…紫式部の娘・賢子が異例の大出世を遂げた本当の理由

AI要約

紫式部の娘、賢子は、藤原道長との関係がドラマで描かれることで話題となっている。脚本家は、『源氏物語』のテーマに合わせて、道長との関係を設定したが、史実としてはその可能性は低い。

宣孝との間に生まれた娘について、道長が自分の子であると意識していたという設定もあり、物語が展開する中で歴史的事実とフィクションが絡み合う様子が描かれる。

しかし、宣孝の急死や、為時が帰京して一緒に暮らすようになったことなど、賢子の人生はさまざまな展開が予想される。

紫式部の娘、賢子とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「18歳ごろ、母親の跡を継いで女房として出仕。その後、親仁親王の乳母に選ばれたことで、大出世した。だが、それは藤原道長の娘だからではない」という――。

■紫式部の娘が藤原道長の子として描かれる理由

 第26回「いけにえの姫」(6月30日放送)で、石山寺(滋賀県大津市)を訪問したまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)は、藤原道長(柄本佑)とばったり会う。続く第27回「宿縁の命」(7月14日放送)では、2人のラブシーンが描かれ、それを受けて、まひろは女児を出産した。NHK大河ドラマ「光る君へ」の話である。

 子は身ごもったものの、妊娠したのが、夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)がまひろに会いに来なかった時期に該当するので、必然的に道長の子ということになる。まひろは悩んだ末に、宣孝に離縁を切り出す。

 それに対して宣孝は、「そなたの産む子はだれの子でもわしの子だ」「わしのお前への思いは、そのようなことでは揺るぎはせぬ」などと、度量の大きな言葉を並べた。しかも、宣孝は「その子をいつくしんで育てれば、左大臣様(註・道長)はますますわしを大事にしてくださる」とまで発言したから、子供のほんとうの父親がだれなのか、最初から宣孝は認識しているという設定である。

 たしかに、まひろがこれから執筆することになる『源氏物語』では、不義の子が大きなテーマのひとつになっている。たとえば、主人公の光源氏と、彼の憧れの的であった藤壺中宮とのあいだに産まれた子が、桐壺帝の子として冷泉帝になる。

 おそらく脚本家は、これから書かれる『源氏物語』の内容が、まひろの実体験と重なるようにしたいのだろう。

■史実である可能性は「かぎりなくゼロ」

 しかし、紫式部が産んだ子の父親が道長だった可能性はあるのだろうか。もちろん、男女の逢瀬について当時の記録がないからといって、「なかった」と断じることはできない。ましてや、子供の父親がだれであったかなど、DNA検査でもしないかぎり正確なところはわからない。

 その意味では、父親が道長であった可能性を「ゼロ」と言い切ることは不可能である。だが、そもそも、身分差が大きい2人がこうして偶然に遭って子供を宿す可能性は、「ゼロ」とは言い切れないまでも、かぎりなく「ゼロ」に近かったといえる。そもそもこの時代、貴族の女性は、異性にみだりに顔を見せたりせず、出歩くことも少なかった。

 「光る君へ」では、韓流ドラマなどでよく見るように、ほぼあり得ない偶然をいくつも重ねて、紫式部の子は道長との不義の子ということにしてしまった。それによる負の影響が心配である。

 脚本家は意識していないかもしれないが、今後、「光る君へ」の視聴者は、ことあるごとに「まひろの子は道長の子」だと意識することになってしまうだろう。そうすると、どうなるか。

 いみじくも宣孝は、「左大臣様はますますわしを大事にしてくださる」と発言したが、この言葉は、視聴者がこれから誘導される方向を象徴している。宣孝の待遇はもとより、まひろの扱いも、まひろが『源氏物語』を書いた動機も、『源氏物語』の内容が現況のようになった理由も、視聴者はすべて「まひろの娘の父親が道長だから」という1点から理解することになりかねない。

 まひろの娘について、「父親は道長」である可能性も残すという程度ならいい。だが、ドラマとはいえ、そこを断定してしまうと、視聴者が歴史、および『源氏物語』の成立について考察する際、かなり濃い色眼鏡をとおすことになってしまう。

■夫・宣孝の急死

 むろん、まひろが産んだ娘についても視聴者は、道長自身が自分の娘であると意識していた、という視点を持つ。その結果、歴史的事実に対して広く想像をめぐらせることが困難になるのが怖いが、ともかく、ここでは先入観なしに、彼女の今後がどうなるのか、確認しておきたい。

 賢子が誕生する前後、宣孝は重要な任務を帯びて九州に下向し、おそらく礼として、道長に馬2頭を献上。その後も道長に近侍することが多かった。ドラマでの「ますますわしを大事にしてくださる」という発言が真実味を帯びて聞こえてしまう厚遇ぶりだった。

 ところが、長保2年(1001)4月25日に宣孝は急死する。九州からはじまった疫病に感染した可能性があり、重度の内臓疾患に見舞われたようだ。紫式部はこのころ30歳前後だったと思われる。

 翌長保3年(1002)の春から初夏には、「光る君へ」で岸谷五朗が演じている父の為時が、4年にわたる越前守(福井県北東部の長官)の任期を終えて帰京しており、以後は以前から住み慣れた家で、為時、紫式部、賢子という3世代(弟の惟規もいたであろう)が暮らすことになったと考えられる。