天皇になれる血筋だったのに、20歳で夭逝…「藤原道長の壁」を超えられなかった「定子の息子」の悲劇

AI要約

藤原道長は政治的権力を強めるために娘を天皇に嫁がせ、天皇の親戚となった。その影響で道長の娘を持たなかった親王たちは、本来帝位を継ぐはずの存在が道長の勢力に抗うことができず苦しむことになった。

敦康親王と敦明親王は道長の娘たちから生まれなかったため、本来天皇になる可能性があったが、そうなれずに苦悩する運命となった。敦康の母が定子である一方、一条天皇は彰子の子である敦成を天皇として選び、道長の権勢を避けようとした。

道長や天皇、親王たちの関係が巧妙に絡み合い、政治と人間模様が交錯する様子が描かれる。結果的に敦康や敦明は、自らの血統を理由に帝位を失い、道長の影響下で生きる運命を辿ることとなる。

藤原道長は自分の娘と天皇を結婚させ、天皇の親戚になることで政治的権力を強めていった。歴史学者の関幸彦さんは「道長の娘を母に持たなかった親王は、本来であれば天皇になれたところ、道長の権勢に対抗できず無念の人生を送ることになった」という――。

 ※本稿は、関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■道長の孫ではなかった2人の親王

 本稿では、道長が関係した2人の親王たち(敦康親王・敦明親王)の悲劇についておさらいしておく。この両人に共通したのは、ともに道長の娘たちの所生ではなかったことだ。順調に行けば、帝位を約束された親王たちだった。

 敦康については、その母は定子である。彼は長保元年(999)に一条天皇第一皇子として誕生した。「長徳の変」での配流先から帰京が許された伊周・隆家にとって、敦康は“期待の星”だった。

 敦康誕生と時を同じくして、道長の娘彰子が13歳で一条天皇に入内する。中関白家にとっての暗雲のおとずれだ。定子の死がそれを現実のものとなる。翌年冬に媄子(びし)内親王を出産後に定子は死去する。

 母定子を失った敦康は、厳しい環境下で育つことになる。父の一条天皇も定子所生の敦康への期待も大きく、寛弘7年(1010)には元服、帥宮(そちのみや)さらには式部卿として成長していった。

■一条天皇は「彰子の子」を選んだ

 一方、彰子と一条天皇の間に寛弘5年(1008)、敦成親王が誕生する。天皇は定子所生の敦康か、彰子所生の敦成かの選択を迫られる。結果的には道長の権勢をはばかり、敦成を選ぶことになる。

 『大鏡』〈道隆伝〉には、敦康親王の周囲にあって唯一ともいえる後見的立場の隆家は、優柔な決断をなした一条天皇に対して、「人非人」と発言するなど、落胆を隠さなかったという。

 たしかに、一条天皇も亡き定子が残した敦康への想いは強く、道長の権勢に従う天皇自身も忸怩(じくじ)たる想いがあったはずだ。天皇という立場にありながら、自分の意志を全うできない決断力不足への隆家からの指弾も、それなりの理由があった。