【光る君へ】紫式部に「まるごと引き受ける」と求婚…藤原宣孝の実像 やらかしの逸話も

AI要約

まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に大きな転機が訪れた。NHK大河ドラマ『光る君へ』。父の藤原為時(岸谷五朗)が越前(福井県の大部分)の国守(長官)として赴任するのに同行したまひろのもとには、都から為時の遠い親戚で友人でもある藤原宣孝(佐々木蔵之介)が訪れた。

第24回「忘れえぬ人」(6月16日放送)では、さらに話が進んだ。このドラマでは、かつて愛し合った藤原道長(柄本佑)のことが「忘れえぬ人」として、まひろの心のなかを占めている。

宣孝はそのことをわかったうえで、「忘れえぬ人がいてもよい。それもお前の一部だ。ありのままのお前をまるごと引き受ける。それができるのは私だけだ」と、プロポーズの言葉を述べた。まひろが「忘れえぬ人がいてもいいのですか?」と聞き返しても、「よい。それもおまえの一部だ。まるごと引き受けるとはそういうことだ」と即答し、「都で待っている」と言い残して去っていった。

 それはともかく、まひろは父の為時に、都に帰って宣孝と結婚しようと思うと伝えるのである。

宣孝についての有名な記述は、清少納言の『枕草子』に登場する。一一五段「あはれなるもの」に、宣孝の金峯山詣でについて書かれている。清少納言によれば宣孝は、「あぢきなきことなり。ただきよき衣を着て詣でむに、なでふことかあらむ。かならず、よも、あやしうて詣でよと、御嶽さらにのたまわじ」と発言。そのうえで、正暦元年(990)3月、紫色の濃い指貫袴に、白い狩衣、黄色い上着という、当時の参詣者の常識を覆す身なりで、金峯山詣でを行ったという。

【光る君へ】紫式部に「まるごと引き受ける」と求婚…藤原宣孝の実像 やらかしの逸話も

 まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に大きな転機が訪れた。NHK大河ドラマ『光る君へ』。父の藤原為時(岸谷五朗)が越前(福井県の大部分)の国守(長官)として赴任するのに同行したまひろのもとに、都から為時の遠い親戚で友人でもある藤原宣孝(佐々木蔵之介)が訪れた。そして、第23回「雪の舞うころ」(6月9日放送)の最後で、「都に戻ってこい。わしの妻になれ」と、彼女に告げたのである。

 第24回「忘れえぬ人」(6月16日放送)では、さらに話が進んだ。このドラマでは、かつて愛し合った藤原道長(柄本佑)のことが「忘れえぬ人」として、まひろの心のなかを占めている。

 宣孝はそのことをわかったうえで、「忘れえぬ人がいてもよい。それもお前の一部だ。ありのままのお前をまるごと引き受ける。それができるのは私だけだ」と、プロポーズの言葉を述べた。まひろが「忘れえぬ人がいてもいいのですか?」と聞き返しても、「よい。それもおまえの一部だ。まるごと引き受けるとはそういうことだ」と即答し、「都で待っている」と言い残して去っていった。

 こんなに包容力があふれる言葉をかけられたら、かたくなな女の心も溶けるかもしれない。脚本の大石静は男女の機微が描ける。ただし、後述するが、このような直接的なプロポーズは、この時代にはあり得なかったはずではあるが。

 それはともかく、まひろは父の為時に、都に帰って宣孝と結婚しようと思うと伝えるのである。

 では、宣孝とはどんな男だったのか。血縁に関しては、右大臣にまで昇進した藤原定方を、宣孝と為時がともに祖先にしている。宣孝は定方の男系のひ孫。一方、為時は、父の雅正が定方の娘の子なので、定方の女系のひ孫。しかし、為時の母(雅正の妻)は定方の娘なので(雅正は自分の叔母と結婚した)、定方の女系の孫でもある。

 ともかく、宣孝は文字どおり為時の遠縁にあたる。また、『光る君へ』では秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』には、寛和元年(985)正月18日に、内裏で弓による射撃を競い合う「賭弓」という正月行事が行われた際の記述に、宣孝と為時の名がともに見えるので、ドラマで描かれているように、二人は旧知の間柄だったと考えられる。ちなみに、そのころ紫式部は、おそらく十代前半だったと思われるが、宣孝はすでに30代だった。

 そのころの宣孝は、なにかと「やらかして」いる。永観2年(984)には、賀茂臨時祭にあたって、馬を牽く役を命じられながら務めなかったため、問い質された挙句、昇殿を停止されたと、やはり『小右記』に書かれている。また、『大斎院前御集』によると、寛和元年(985)には、丹生社に祈雨使として派遣されたが、従者がひどい目に遭ったそうで、それを理由に昇殿を止められ、宮廷を追われそうになっている。

 倉本一宏氏は、こうした事例から、宣孝は「派手で明朗闊達、悪く言えば放埓な性格でもあったようである」と判断している(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

 宣孝についての有名な記述は、清少納言の『枕草子』に登場する。一一五段「あはれなるもの」に、宣孝の金峯山詣でについて書かれている。当時、吉野の金峯山に詣でる人は、その前の50日から100日の間、「御嶽精進」といって、身を清め、読経などを行うものだった。また、身分が高い人でも、質素な身なりで詣でるのが一般的だった。

 ところが、清少納言によれば宣孝は、「あぢきなきことなり。ただきよき衣を着て詣でむに、なでふことかあらむ。かならず、よも、あやしうて詣でよと、御嶽さらにのたまわじ(そんなのは無益なことだ。立派な身なりで参詣するのに、どうして不都合なことがあるものか。よもや御嶽の蔵王権現は、質素な身なりで参詣するように、などとはけっしていわないだろう)」と発言。

 そのうえで、正暦元年(990)3月、紫色の濃い指貫袴に、白い狩衣、黄色い上着という、当時の参詣者の常識を覆す身なりで、金峯山詣でを行ったという。豪快で、放埓で、前例に縛られない自由な考え方ができる人間だったと思われる。

 ところで、このとき同行していた長男の隆光は、この時点で20歳になっており、紫式部より若干年上だったと考えられる。