ノーベル賞候補・87歳イタリア人作家 抑留・疎開の愛知の寺再訪

AI要約

イタリアの作家、ダーチャ・マライーニさんが太平洋戦争中の抑留生活を経験した父の慰霊碑を訪れる。

マライーニさんの父はファシズムに抵抗し、敵国人として名古屋市の外国人収容所に送られた過去を持つ。

広済寺での再会を通じ、マライーニさんは日本を愛した父のメッセージを思い出し、感謝の気持ちを述べる。

ノーベル賞候補・87歳イタリア人作家 抑留・疎開の愛知の寺再訪

 太平洋戦争中に名古屋市で抑留生活を送った経験を持つイタリアの作家、ダーチャ・マライーニさん(87)が14日、父の慰霊碑がある広済寺(愛知県豊田市)を訪れ、関係者と再会を果たした。

 文化人類学者のフォスコ・マライーニさん(1912~2004年)を父に持つマライーニさんはノーベル文学賞の候補に名が挙がり、フェミニズムや反ファシズムに焦点を当てた作品で知られる。11日に来日した。

 マライーニさんは1938(昭和13)年、フォスコさんが北海道帝国大(現北海道大)に留学したのを機に、一家で札幌市に移住。一家はその後、フォスコさんが京都帝国大(現京都大)でイタリア語教師に就いたため、京都で暮らした。

 一方、祖国イタリアは43年、連合国に無条件降伏。フォスコさんは日本の同盟国だったナチス・ドイツの影響下で樹立したファシスト新政権への忠誠を拒否したため、一家は「敵国人」として名古屋市の外国人収容所に送られた。

 名古屋大空襲により45年春、収容所の外国人も疎開することになり、一家が身を寄せたのが広済寺だった。マライーニさんが広済寺を訪れるのは90年以来34年ぶり。当時の同寺住職の孫で、幼少期にマライーニさんと親交を深めた加納啓子さん(88)が迎えると、2人は抱き合って再会を喜んだ。

 フォスコさんは亡くなる直前に「体の一部を広済寺に埋めてほしい」と遺言を残し、加納さんらが裏山の墓地にフォスコさんの毛髪と爪を収めた慰霊碑を建てた。碑には、過酷な抑留経験にもかかわらず、日本を愛したフォスコさんの「争いのないメッセージを地球に贈ります」という言葉が刻まれている。

 慰霊碑の前で手を合わせたマライーニさんは「啓子さん家族は、私たちを敵ではなく、友として接してくれた。そこにはファシズム、イデオロギーではなく、人間としての価値観を示してくれたことに感謝している」と話した。加納さんは「会うことができて本当に良かった。フォスコさんがつないでくれたと思う」と笑顔を見せた。

 マライーニさんは15日に札幌に移動。16日には一家で交流のあった北海道帝国大の学生、宮沢弘幸さんが戦時中にスパイ行為に問われ、実刑判決を受けた「宮沢・レーン事件」をテーマに北海道大で講演する。【真貝恒平】