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美術家・横尾忠則が「人間は不平等だから輪廻転生はある」と確信する理由とは?
中高年にとって死に向かう人生は駅伝競走に例えられ、輪廻転生と結びつけられる。個々の人生はマラソンのような一代記であり、一区間ずつ走る駅伝は魂の転生を表す。輪廻転生は駅伝競走を通じて説明され、最終的なゴールは涅槃とされる。
現代人は輪廻転生や死後の世界に興味を持たず、見えるものだけを信じる傾向がある。魂や見えないものを無視することで、見える世界にも影響を及ぼす可能性がある。
重要なテーマである輪廻転生や死後の世界を探究することなく、社会が成立している状況に異を唱え、見えないものに対する考察の重要性を訴える。
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中高年ともなれば、親しい人の死に直面する機会が増え、自身の死も身近に感じられるだろう。毎日すこしずつ死に向かう人間は、ゴールを目指すマラソンランナーのよう。だが、横尾忠則に言わせれば、それは魂というたすきをつなぐ駅伝なのだという。読者の多くが抱える死への不安に、御年87歳の芸術家が説く輪廻転生はどう届くだろうか。※本稿は、横尾忠則『死後を生きる生き方』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
● たすきを魂と考えれば 輪廻転生は駅伝競走に似ている
マラソンと駅伝競走を比べてみたいと思います。
マラソンは、その人の今生の、一世一代の人生ですよね。一人でスタートして、42.195キロメートルという長い距離を走り切ってゴールへ飛び込む。これが一つの人生。だから、単独行為です。
ところが、駅伝はどの選手も皆、一区間しか走らない。団体行為です。いわば、一人ひとりは未完成なんです。そこに「俺はもう二区間、三区間走る能力があるよ」という選手がいたとしても、一区間で全力投球したんだから、もうそこで次の人にたすきを渡しましょうとなる。
これは魂の転生に似ています。たすきを魂と考えれば、次の人にそのたすきを渡す。そこで、次の人はまた、違う肉体で、また、走る。肉体が、次から次へと変わっていくわけです。ただ、魂というたすきは変わらない。それが、輪廻転生です。最後に飛び込むところのゴールが不退転、すなわち涅槃なんですね。つまり、輪廻転生のシステムを駅伝にたとえると、それに対して、マラソンは一人の人間の一代記だから、今生だけの人生です。
死後生があるかないかという話と、輪廻転生は決して無関係じゃないと思います。
だけど、現代人は、輪廻転生と言ったってほとんど興味がない。それと死後の世界、これも興味がない。興味がないということはないかもしれないとも思うんですが、少なくともこの問題を探究しようとはしませんね。これほど興味深いテーマなのに、探究しようというそぶりすら見せない。
人間の魂にとって、あるいは現世にとっても、すごく重要なものなのに、興味を持たずにこの社会が成立しているわけです。昨日も、今日も、明日も、ずっと。その大事なものをないがしろにして、どうして見えるものだけを信じているのかということです。もっと見えないもの、わからないものを受け入れて、それは何なんだということを考えないと、見える世界のことまで見えなくなってくると思います。今、すでにそうなっているんじゃないですか。