成田管制塔占拠事件、主導役の元受刑者死去 生前「申し訳なかった」

AI要約

1978年、成田空港での管制塔占拠事件を計画・指揮した元受刑者が83歳で死去。事件の経緯や和多田粂夫さんの活動について述べられている。

和多田さんは事件後、出所して組織賠償金を募るなど社会復帰を果たし、自らの行動を振り返っている。元同志への敬意も示されている。

事件関係者らの証言や和多田さんの言葉を通じて、事件当時の思いや葛藤が表現されている。

成田管制塔占拠事件、主導役の元受刑者死去 生前「申し訳なかった」

 今なお反対運動が続く成田空港で46年前、管制塔占拠事件を計画・指揮した元受刑者の男性が83歳で5月28日に死去した。福井県出身の和多田粂夫(わただくめお)さん。胃がんだった。今月2日に東京都内で行われた葬儀には事件関係者らが集まった。

 事件は1978年3月26日、開港を4日後に控えた新東京国際空港(現・成田空港、千葉県成田市など)で発生。管制塔に、空港建設反対運動を支援するとした若者ら15人が侵入し、16階の管制室を約2時間占拠して室内の機器を工具などで破壊した。管制官たちは屋上に逃げ、ヘリコプターで救出された。若者らは逮捕されたが、国の顔ともいうべき国際空港の開港がこの年の5月20日まで延期される異例の事態となった。

 事件当時37歳で、過激派の活動家として成田・三里塚に常駐していた。前年に入手した排水路の設計図などをもとに、空港用地の外から排水溝を通って用地内に侵入する計画を立案し、仲間が実行した。「農民から土地を奪って空港を造る暴挙を許せなかった。国に開港をあきらめさせたかった」と生前、語っている。

 指名手配された和多田さんは約1年後、警察官に気づかれないまま仲間の裁判を傍聴し、自ら裁判長に名乗り出て逮捕された。航空危険罪などに問われ、起訴された被告17人の中で最も重い懲役10年の判決を受け、高裁で確定し服役した。

 90年8月に出所し、2005年には出版物発送会社の社長に就任。事件を起こした元受刑者らが国から事件の賠償金を支払うよう求められると、インターネットを通じてカンパを募った。元同志ら2000人以上が協力し、延滞金を含めた約1億300万円を同年11月に支払った。

 事件に関わった人の中には、出所後に自死の道を選んだ人もいた。和多田さんは自分が出所すると、この元同志をしのんで、空港用地内で毎年開かれている花見会への出席を欠かさなかった。

 事件に関わった中川憲一さん(76)は「事件前、和多田さんは『警察官や民間の人を傷つけるな』と言っていた。『管制官たちに怖い思いをさせて申し訳なかった』と繰り返していた」と振り返った。【早川健人】