江戸は「坂」の多い町 物資を運ぶ苦労は並大抵ではなかった!

AI要約

江戸時代の歴史を語る上で欠かせない要素である「坂」に焦点を当てた記事。

多くの坂がある理由や、山の手台地と低地の地勢による影響について解説。

坂が物資運搬や経済活動に与えた重要性について紹介。

江戸は「坂」の多い町 物資を運ぶ苦労は並大抵ではなかった!

 今回は、江戸の歴史を語るうえで切り離すことができない「坂」に着目。江戸に坂が多い理由を解説し、また物資を運ぶ苦労話なども紹介しよう。

 東京23区には現在、確認できるだけで800~900の「坂」があるという。しかも800という数字は名前の付いた坂だけで、無名のものを含めると数千という説もあり、正確にはわからない。

 なぜ、これほど多いのか――。23区の地勢は、広範囲に盛り上がった山の手台地と、江戸川や荒川などの河川によって運ばれた土砂が堆積した低地に大別される。

 山の手台地は標高20mを超えており、一方の低地は20m未満である。

 都市史研究家の鈴木理生(まさお)によると、山の手台地は

・上野台(北区~文京区~台東区)

・本郷台(文京区)

・豊島台(豊島区)

・淀橋台(豊島区~新宿区)

・目黒台(目黒区~品川区)

・荏原台(品川区)

の台地の総称で、各台地の東端を結ぶと、現在のJR京浜東北線・赤羽~品川間とほぼ重なり、この東端のラインを境に西が「山の手」、東が「下町」とされている。

 西側を山の手と呼び始めたのは江戸時代の元禄期(1688~1704)からで、一方の下町は江戸時代初期から埋め立てた地だった。

 こうした地形的特徴から、江戸には両者を行き来するため多くの「坂」が生まれた。

 山の手の内にも多い。東京都地質調査業協会によると、23区の坂の60%が千代田区、港区、新宿区、文京区、つまり山の手にある。

そして、山の手は主に大名屋敷が立ち並ぶ「武家地」だった。歴史家の大石学は、江戸の坂は大名屋敷に物資を運ぶ運搬ルートとしても重要だったという。

 例えば現在も新宿区神楽坂に、「軽子坂」がある。江戸幕府が編纂した地誌『御府内備考』は、この坂についてこう記している。

「軽子坂は揚場(あげば)より船に積みし来りしものをはこぶ軽子これ坂下に多くつどいて、山の手への通いとする坂なり」

 船荷を荷揚げする「揚場」が江戸城の外堀にあり、そこに「軽子」と呼ばれる人足たちが集まり、山の手に運搬する仕事に従事していた。つまり、軽子坂とは人足に由来する名称だった。

 歌川広重が描いた『江戸名所図会』が、神楽坂下にあった牛込揚場を描いている。回り道して平たんな道を造れば荷物の運搬はラクだが、物流は経済活動を支えるためスピード重視だ。そこで、

「あえてショートカットできる道 = 坂」

が、江戸の各地に造成されたのだ。江戸の経済活動に坂は不可欠だった。とはいえ、江戸時代の道は現在のようにアスファルトではない。土である。さぞかし歩きづらかったはずだ。ましてや当時は車もない。荷車に積んで人力で運んだ。急峻(きゅうしゅん)な坂では困難がともなっただろう。